見逃していたテレビ番組を、途中からではありますが見ることができました。
NHKの "ETV 2001" の番組で、「世紀を超えて」でしたでしょうか、タイトルをよく覚えていないのですが、内容は米国のベンチャービジネスと、それを支える社会環境の紹介です。
きっとご覧になった方も少なくないと思います。
先ず米国のベンチャーキャピタリストについて紹介され、彼らの9割以上が、銀行ではなく、自らが事業に成功した経験のある個人投資家であることが紹介されました。
融資家ではなく、投資家なのですね。
担保をとられる日本の融資の仕組みでは、起業家は失敗など許されるわけもなく、夜逃げ覚悟で事業を興さねばなりません。
ところが、米国の投資の仕組みでは、起業家の失敗による経済的な損害は全て投資家が被ります。
ですから、投資家はただの高利貸しではなく、起業家を見る能力を備えています。
そして契約が成立すると、投資家は「パートナー」として起業家のモチベーションを奮い立たせ、アイディアを膨らませてやります。
経済的な援助だけでなく、いわばメンタルな支援を行う役割が大きいのだそうです。
こうして、たとえ10の投資に失敗しても、1つの投資に成功すれば大いに採算が合うといいます。
米国のベンチャービジネスが活性化している背景には、こういった側面があるようです。
もう一つの重要な側面は教育です。
米国の大学は、地元への企業誘致の役割を果たそうとしています。
そのため、各大学は競い合っていて、少なくとも他の大学には負けない分野、すなわち大学としての個性を獲得し磨きをかけているということです。
ですから、学生達は自分の目標に叶った大学を選択することができます。
閉鎖的で、競争といっても1次元的な意味合いしか持たない某国の大学事情とは些か異なるようです。
ベンチャービジネスのメッカといえば、米国西海岸にあるシリコンバレーです。
私も訪れたことがありますが、バレーというにはあまりにも広大な土地に、世界のトレンドリーダーとでもいうべき企業の研究所や事務所が林立しています。
この地域の核となっているのが、スタンフォード大学です。
この大学の卒業生が、ヒューレットパッカード、ネットスケープ、サン、シスコなどの、今では最先端の大企業と思しき会社を興しました。
そして、今もなおこの大学は多くの起業家達を輩出し続けています。
番組は、この大学に入り、工学科の大学院で行われていた或る授業を紹介していました。
それは、4人組の班に分かれ、紙製の車椅子を作成するというものでした。
米国が世界に誇る一流大学の、それも大学院の授業風景が、まるで小学校の図画工作のようであることがとても興味深く感じられました。
紙は、自由度が高く加工しやすいですから、いろいろなアイディアを導きやすい素材といえます。
しかし、強度が不足するため、失敗するグループが続出します。
実は、この授業のミソは、学生達に失敗をさせることにあるようなのです。
この授業が生徒達に求めているものは、次の3つだそうです。
- 発想力
自分で考え、アイディアを生み出す能力。
アイディアは起業家の命だ。
教えられた方法を忠実に実践する能力だけでは、事業を起こすことなどできない。
- チームの活用力
事業を一人で成功させることはできない。
仲間を獲得し、それを活用する能力が不可欠である。
これは、どうやったら人と仲良しになれるかとか、どういう礼儀作法が必要かといった授業ではない。
どうやって人を利用し、人から利用され、目的を達成するかが試されている。
- 失敗を克服する能力
失敗から学び、それを乗り越えてベターなものを生み出す能力。
失敗を恐れていては事業が興せない。
かといって、失敗すると痛手を被ることは事実だ。
痛手を被っても、そこから立ち直る能力、失敗した経験を次に活かす能力が試されている。
いわば、実社会のハードルに立ち向かうために、低いハードルを与え、自らの知恵と力で乗り越える練習をさせているのである。
実に明快です。
大学で紙製の車椅子の作り方を教わったところで何になるでしょう。
確かに、コストパフォーマンスの良い車椅子の会社を興せるかもしれません、でもそれだけです。
それに、卒業生が全員同じアイディアの車椅子事業を始めたところで世の中はうまくいきません。
大学は、車椅子の作り方を教えているのではなく、車椅子の製作を通して起業家として必要な個性とスキルを開発しようとしているのです。
大学は、教える場所ではなく、育てる場所として機能しているわけです。
ある人気教授の研究室に、学生が斬新なアイディアを持って来ると、教授は想定される様々なリスクについて考えが及んでいるかを確認し、必要とあれば実際的な情報を提供します。
いわばこれが「教える」という行為なのですが、それは生徒が必要としている情報だからです。
どういう情報が必要となるのかは、生徒がアイディアを持ち込んできたから分かることであり、いわば生徒が自分で選択していることになります。
生徒達は非常に活気に満ちている様子で、某国の学校風景とは比べものにもなりません。
日本の教育は、減点法です。
100点が正解であり、どれだけ失点を少なくするかが勝負です。
当然のことながら、失敗をしないためにはどうするかということに注力しています。
そのため、先の融資の問題以前に、我々は非常にリスカーバス(リスク・ナーバス)な情緒を持って生活しています。
少年サッカーにすら、その傾向を見出すことがあります。
リスカーバスになった子供達は、積極性がなく、コーチに言われたことをこなすことに必死で、とても楽しそうには見えません。
せめて、少年サッカーのコーチングからは、減点法を一掃したいですね。
少年サッカークラブは、子供達が自ら発想し、チームを活用し、失敗を克服するための練習場にしたい。
成功経験を持った起業家が投資家に相応しいように、
サッカーでの成功経験をお持ちの方々は少年サッカーのコーチにも適していると思います。
けれど、忘れてならないのは、主人公は子供達であるということです。
そのコーチが指導する洗練された技術や戦術を子供達が忠実に再現してみたところで、仮に成功したとしても、それは何の意味もないのだということに気づく必要があります。
まして、その方法で失敗したとすれば、負け損でしかありません。
しかも、その失敗をコーチから責められている子供達は、いったい何のためにサッカーなんかやるハメになってしまったのでしょう。
コーチは善意から夢中になって子供達を指導します。
けれど、本当に大事なことは何かを見失うべきではありません。
少年サッカークラブは、サッカーを教える場というより、サッカーを育む場であって欲しいと思います。