わかるということ


 我々は、すぐになんでもわかった気になります。 ちょっと知識を得、理論なぞを囓ると、それでもう分かっちゃうんですね。 これは是非、私が、子どもたちに教えてあげよう、そういう意志を持ちます。 ところが、たいてい、思うようにはいかないものです。 「いいから言われたとおりやってごらん」などと押しつけても、 そのときはそのような動きをしてくれますが、 その場限りのお付き合いに過ぎないことが屡々です。

 戦後教育を受けてきた我々は、大切な文字として、 「知」、「理」、「意」を学んできました。 知識、理論、意志といった言葉の素ですね。 ただ一つ、最も重要な字を置き忘れてきてしまった。 「情」という字です。 どちらかというと、疎んじられてきた字なのではないでしょうか。 感情、情熱、情緒といった言葉に使われる字ですね。 しきりとこの字を持ち出す数学者がいました。 ここだけの話、地元(奈良)では変人と見られていた人ですが、 その業績は超人的であったようです。 ご参考まで、小林秀雄さんとの対談から、 二三の言葉を抜粋してみます。

デルピエ〜ロ


「人間の建設」より

  • 躾けられて、そのとおりに行為するのと、 自分がそうとしか思えないからその通り行為するのと、 全く違います。

  • 知や意思はいかに説いたって情は納得しない。 実際また情が主になって動きませんと、感情意欲が働かない、 従って前頭葉が命令するという形式にならない。 前頭葉を使い、使いながら強くなるという形式で頭脳も発達してこない。 無理に癖をつけるやり方、側頭葉しか働かせない教育、 それを躾と思い違っているらしいが、いくら厳しくしても、 自主的に自制力を働かせる機会を奪い去っているのだから無駄です。 あれほど厳しく躾けたのに、こんな子供ができてしまった、 きっと躾けすぎたのがいけない、やはり放任すべきだ というような見当違いになるのです。 情が納得して、なるほどそうだと人自身が動き出さなければ、 前頭葉も働かない。

  • 理性というのは、対立的、機械的に動かすことしかできませんし、 知っているものから順々に知らぬものに及ぶという働き方しかできません。 本当の心が理性を道具として使えば、正しい使い方だと思います。 われわれの目で見ては、自他の対立が順々にしかわからない。 ところが知らないものを知るには、飛躍的にしかわからない。 ですから知るためには捨てよというのはまことに正しい言い方です。 理性は捨てることを肯(がえん)じない。 理性はまったく純粋な意味で知らないものを知ることはできない。 つまり理性のなかを泳いでいる魚は、自分が泳いでいることがわからない。


岡 潔(おか きよし)
1901年生誕、1978年没。
日本数学史上最大の数学者。
1925年(大正14年)、京都帝大卒業と同時に講師に就任、
以降、広島文理科大、北大、奈良女子大で教鞭をとる。
多変数解析函数論において世界中の数学者が挫折した
「三つの大問題」を一人ですべて解決した。
1960年(昭和35年)、文化勲章受章。


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