下宿と漫画
僕は、曲がりなりにも大学の学生証を持っていたころ、しばらく下宿をしていたことがあります。
最初の下宿は、鶴巻町という小さな町にありまして、バスなしトイレ共同の四畳半。
壁が薄く(というか只の民家の一室ですから)隣りに越してきた青年がシンセの鍵盤をパタパタやる音まで聞こえました。
その青年、毎日午前2時頃までパタパタやるんです。
で、一旦静かになる。
それから決まって3時頃に「あ〜、ばかだな〜」と呟いてから寝る、というのが日課でした。
向かいの部屋は作業員風の四白眼の男で、僕の部屋に訪ねて来た友達の靴をことごとく刃物で切り裂いてしまうというのが癖でした。
共同便所に水をまき散らしたりするので、大家の婆さんが嘆いていました。
ゲシュタルトの悦次朗とはその頃からの付き合いで、酒を呑んでは下宿の玄関に立ち小便のマーキングを施して行くので、これまた大家の婆さんの頭痛の種でした。
下宿生活を始めるとき、特に理由もなく、僕はTVと決別することにしました。
下宿にTVは持ち込まない。
すると、夜が長いの何の。
その有り余る時間で何か建設的なことでもすればよかったのでしょうが、人恋しくなって飲み屋に出向いてみたり、雀荘にいりびたってみたり、ゲーセンをうろついてみたりしていました。
当時はまだ風俗営業法もなかったので、そういったところで夜明かしすることもザラでした。
それでもなお手持ち無沙汰で、読書でもすれば良かったのでしょうが、漫画の単行本を買い込むようになりました。
手塚治虫さんの「火の鳥」、松本零士さんの「男おいどん」、鳥山明さんの「Dr.スランプ」、高橋留美子さんの「うる星やつら」、「めぞん一刻」、石坂啓さんの「安穏族」、わたべ淳さんの「横浜ラブコネクション」、果ては石井隆さんの「天使のはらわた」などなど。
中でも素晴らしいと思ったのが、谷岡ヤスジさんの「めっためたガキ道講座」、「アニマルどー」、「バカが行く」、「ド忠犬ハジ公」などの作品。
何を隠そう、僕もそれなりの漫画オタクだったわけです。
部屋が漫画本に占拠されたころ、これではいかんと質屋からTVを買い、やがて西早稲田の六畳に引っ越しました。
漫画本の殆どは、引っ越しを手伝ってくれた連中へのお礼に化けたり、古本屋に二束三文で引き取られたりしました。
今度は漫画への決別、オール・オア・ナッシングの癖があったようです。
しかし、今でも漫画は、捨てたものではないと思っています。
殊に、ミッキーマウスのウォールト・ディズニー、スヌーピーのチャールズ・M・シュルツ、サザエさんの長谷川町子、フジ三太郎のサトウ・サンペイ、そしてムギギの谷岡ヤスジさん達の漫画は、絵そのものが芸術的でもあります。
輪郭による描写は西欧の世紀末絵画のように表現に富み、単純な点や線への記号化はピカソを連想させる、と言ってはオーバーでしょうか。
ちょっとした筆先の機微で豊かな表情が溢れ出す漫画の手法は、我々の閾下にまで届き、新たな認識の扉を開く...てな具合に形容してはあきまへんでしょうか。
こういった記号の作用は、お猿とヒトサマの違いを探るとき、とても興味深い対象だそうです。
メルロ・ポンティーという先生のチンパンジーの実験について読んだことがあります。
チンパンジーは、自分が移動できないとき、手の届かないところにあるバナナを近くにあった棒でたぐり寄せることは容易に思いつくそうです。
凹字型の壁の向こうあるバナナを、遠回りして取りに行くことも簡単にこなすそうです。
しかし、自分が移動できないとき凹字型の壁の向こうにあるバナナを、棒で遠回しして取得するということができないんだそうです。
つまり、バナナに自分を投影して一人称として操作することができない、事物を記号化して把握することが苦手なんだそうです。
鳥や魚が2つの二重丸を見て目と認識することは、畑のカラスよけや虫の擬態からわかりますが、それは記号(シンボル)というよりも信号(シグナル)の認識になります。
点の目と線の口で描かれたチャーリー・ブラウンに、例えば自分を投影できる能力を人間は持っています。
自己投影は、漫画ならずとも、さまざまな人間的営みの礎です。
--- 27.Jan.1997 Naoki