なすび


 幼い頃は奈良の西大寺という町におりました。 「なおき」という名ですから、姉に「なすび」と呼ばれたりしてからかわれたものです。 横浜に出てきてから、といってももう20年以上も昔の話ですが、学校で「なすび」の話をしたら通じなかったことがあります。 これこれこういう野菜であると説明してやっと理解してもらうことができたんですが、大笑いされました。 「ナスのこと『なすび』だって!(爆笑)」
 《愚か者め...》と心の中で思いました。 調べたわけではありませんが、多分「なすび」が正しいのだと思っています。 それが訛った東言葉(あづまことば)が「ナス」ではないのか。 三省堂のデイリーコンサイス国語辞典には、「なすび:▼茄▽子:】ナス.」とあります。 《愚か者め...》
 昨今では関西弁も多少はTVを通じて関東圏に浸透してきたように思いますが、当時は「じゃこ」という言葉さえ理解されなかったですよ。 「シラスのこと『じゃこ』だって!(笑)」 《愚か者め、しらす干しは干した白魚、じゃこは雑魚、つまり鰯をはじめとする雑多な小魚の稚魚じゃ》
 大学の頃、名古屋の人間が「チャリンコ」のことを「ケッタ」というので、皆で大笑いしたことがあります。 一人が「じゃあ京都※では何ていう?」と訊くので、「ジテンシャ」だと答えてやったことがあります。 (【注】※米国人が日本人を「チャイニーズ」と呼ぶように関東人は奈良のことを「京都」という)
 かく言う自分も、関東生活の方が遙かに長いのであって、果たして関西が理解できているのかというと大いに疑問です。 現在では、何の違和感もなく「日本語」を使っております。 けれど、ここで日本語と思っているものはおそらく東言葉と長州言葉(山口弁)が合体したようなものであって、大和言葉としてはむしろ関西や九州方面の言葉の方が本場であるようには思います。 見方を変えれば、久留米弁や東北弁も日本語ですし、アイヌ語もれっきとした日本人の言葉です。 更には、かなり広大な手話の世界というものがあるらしい...
 「正しい日本語」が東言葉であるというのは、多分文部省かなんかがお決めあそばしたことでしょう。 「ナス」もそうですが、動植物を片仮名で書くように統一なすったのも、そういった方々の、なんらかの、賢明な、思慮深い、有り難いご配慮の賜でありましょう。 しかし、実際に正しい日本語というようなものは、もう少し広義に捕らえる必要がある。 例えば、古語で習う係り結びのようなものが、関西や九州方面に残っているそうです。 沖縄では蝶のことを「はべるん」と呼ぶそうですが(花に「侍る」からかな)、なんとなく由緒正しい印象のある言葉です。 日本語の起源を辿っていくと、シュメールやアッシリアのような古代文明にまで到達するのだそうですが、アイヌ言葉がはっきりとその系譜を留めていることをものの本で読んだ記憶もあります。 東言葉が正しいという発想は、如何なものでしょう。
 こんなようなことを関東在住の某氏に話しましたところ、「関西人は関東を敵視しているけど、関東人は関西を敵視していない。それって関東に対するコンプレックスの 現れじゃないか?」とまぁこんなようなことをいうのであります。 この根拠のない優越感とデリカシーのなさはどこからくるのでしょう。 この傾向は、少なからぬ日本人が外国人に対して抱いている倒錯とのフラクタルな類似性を孕んでいるかのようで、そら恐ろしい気がします。 僕が思うには、たまたま大阪人には地域ナショナリズムを声高に発言することのできる気質と背景があるだけであって、多くの「地方」、すなわち非東京圏の人々は単におとなしくしているだけなのではないかと思うんです。 人の個性や地域の固有文化の尊重という基本理念が欠落したこの国で、中央の権力が如何に「地方」を抑圧し蝕んできたかを関東の、殊に多くの東京人が知らないだけなんです。 朝鮮の方々に日本名や日本語を押しつけた歴史ほどひどいことではないにせよ、近代の「地方」は東言葉や東文化に迎合させられてきたのだという声があっても不思議ではないでしょう。 きっと国家の経済的繁栄に不可欠だったのでしょうがね。
 中央集権が招く疑問符は、言葉の問題だけに留まりません。 東京のゴミ捨て場が何故千葉にあるのか、原子力発電所が何故茨城の太平洋沿いや日本海沿岸にあるのか、核廃棄物処理場が何故青森になければならず、米軍基地が何故沖縄に集中しているのか、東京人の多くは気にも留めてないんじゃないでしょうか。 関東在住の自分自身にして、この手のことには鈍感に過ぎたと反省せざるを得ません。
 沖縄を代表するミュージシャンの喜納昌吉とチャンプルーズに「ここが東京か〜♪やれほんとに珍しい♪」と唄う悪意に満ちた歌があります。 はっきり言って、好きな曲ではないです。 一本調子だし、深みがないし。 けれど、聞く立場を換えれば実に痛快な歌なのであろうと想像されます。 彼は非常に右傾化した、というか琉球ナショナリズムを大切にするミュージシャンで、沖縄や強いては他の少数民族を愛し激励する内容の歌が多いようです。 しかし、その極みとも思われる名曲「東崎(あがりざち)」は、むしろ地域文化や人種の違いを超越した普遍的な感動を与えてくれます。
--- 26.Mar.1997 Naoki

 アイヌの聖地を違法なダム建設で湖底に沈めてしまった二風谷(にぶたに)ダム訴訟の裁判に関する記事を新聞で読みました。 アイヌの方の意見陳述は、アイヌ語で以下のように語られたそうです。 「私がアイヌ語で話してもあなた方には何も分からないでしょう。あなた方は日本という別の国からきた別の民族なのです。」
 昨日のエッセイが楽観に過ぎたことを示唆する言葉です。 アイヌ問題には、対立と侵略という側面があったわけですから、「日本人」という言葉はもっと慎重に使うべきであったと思います。 もちろん、日本人=倭人と認識すべきではないと思いますが。
 では、手話の場合はどうでしょうか。 侵略はなかったにせよ差別のような問題はあったかもしれませんし、純粋な手話というものは一般人には全く理解できません。 そういう側面がある限り、手話を使う方々が二風谷ダム訴訟の意見陳述に似た感慨をお持ちであっても不思議ではないかも知れません。 僕は、どうも鈍感でいけません。
 少なくとも言えることは、鈍感なのはいつも僕のようなマジョリティー(多数派)であるということです。 マジョリティーには、まず自分たちが鈍感であるということに敏感になる必要がありましょう。
--- 27.Mar.1997 Naoki


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