ここのところ、エッセイを頻発しています。 顧みれば、1、2発という年もありますから、近年では珍しいことかもしれません。 大体、充実している年はエッセイが少ないのです。 多い年と言うのは、フラストレーションが溜っているとか、何か次のステージにシフトする前の歪みが蓄積しているときなんだと思います。 題材は、殆どが昔話、経験したことの追想のようでいて、実際には現在を映しているのでしょう。 それを書こうと思い立っているわけですから、何かを映しているに違いなく、これはエッセイと言いながら、なんらかの野暮な日記なのだろうと思います。 日記というのは、日本人には馴染み深いもので、古来少なくとも平安の昔からあるのですね。 何月何日、晴れ、あるいは曇り、誰々来る、何々をした、何を食べた、といった夏休みの宿題風のものもあるのでしょうが、そうでないもの、例えば日付のないもの、内観的なもの等々、様々あるようです。 外国人だって日記は付けたでしょうが、日本人と日記はもっと親密らしい。 ご存じドナルド・キーン(英名:Donald Lawrence Keene, 雅号:鬼怒鳴門)さんによれば、太平洋戦争の最中、米軍では日記が固く禁じられたのだそうです。 万一流出してしまうと、機密情報が漏えいしてしまう恐れがあるからです。 ところが、日本軍は逆に、日記を奨励したのだといいます。 上官が、兵卒の覚悟に乱れはないか、献身服行、自発共励に努めているかなどを検閲するためです。 キーンさんは、情報士官として米海軍に勤務していたとき、捕虜の、あるいは戦死した日本兵の日記を否応なく解読しなければなりませんでした。 それらには確かに、皇国に報いる青雲の志や、壮烈ナル総攻撃ヲ敢行するぞといった威勢の良い文言が記されていました。 ところが、並走していた仲間の軍艦が目の前で撃沈されたり、負傷して潜伏したジャングルで病魔に犯されたりすると、その内容はもっと個人的なもの、素直な心境や、残してきた家族への想いといったものに変化していくのだそうです。 実際に、これを拾った者は故郷の家族に届けてほしいといった走り書きのある日記まであったらしい。 この変化を機に、名もない一兵卒の日記は、文章の上手い下手はともかく、極めて文学的な色彩を帯び、心を揺さぶられずにはいられなかったといいます。 キーンさんの著書を幾つか拝読させて頂いたことがありますが、中でも強く印象に残ったのが、「百代の過客」(はくたいのかかく)と「続・百代の過客」という、日本人の日記を扱ったエッセイ集です。 「百代〜」の方は平安から江戸時代にかけて、「続〜」の方は幕末から明治維新にかけての著名人の日記を扱っており、どちらも飽くことのない内容満載です。 けっこう毒舌で、添えられていた和歌の腕前は大したことないのだがとか、延々退屈な記述が並ぶのだがといった歯に衣着せぬ批評を織り込みながら、キーンさんが読もうとしているものは、その向こう側にあるのだということがひしひしと、ときとして鮮明に伝わってきます。 例えば、こんな記述があります、ちょっと引用させてもらいましょう。
弁内侍(べんないし)というのは、まことに人をひきつけてやまない女性である。 早くもこの日記の初めの方で、私の心をすっかり捕らえてしまう。 寛元四年(1246年)11月17日(この日記は、他の宮廷女性の日記に比して、はるかに日付が厳密である)のこと、作者は吉田神社の祭礼の使いにたたされる。 その帰途、妹が仕えている女工所(にょくどころ)を急に訪ねてみたくなり、車を曳く者にそちらの方へ行くように命じる。 ところが車の供をしていた蔵人(くろうど)が、夜も更けているゆえ、廻り道は致しかねると断る。 だが自分のしたい通りにするのだと心に決めていた弁内侍は、吉田の使いに立ったものは、帰りにそこへ寄るのがきまりになっている、と言いつのるのである。 「きまり」というのは、内侍がとっさに考えついた作り事だったが、供の者は、「まことにさる先例ならば(ぜひなし)」などと言いながら、彼女の意に従う。 だが女工所に着いたときには、夜もいよいよ深まって、衛士が門をなかなか開けてくれない。 そこで今度は供の者が、吉田の帰りには内侍がここへ立ち寄るのが決まりになっている、それだのになぜ門を早く開けぬか、と衛士を叱りつけるのである。 内侍は言っている。 かやうの事や先例にもなり侍らむとをかしくて(このような事がいわゆる先例というものになってしまうのであろうと思いおかしくて) 日本人の好きな「先例」に対する皮肉が、これほど魅力的に表現された例を、私は他に知らない。 ----- ドナルド・キーン著「百代の過客」より
膨大な量に及ぶ他人様の日記など、到底読破できるものではありません。 しかも、古文や漢文となれば尚更です。 小生は日本人ですが、キーンさんが紹介してくださる文書のおそらく半分も、いや数割も原文では読めないでしょう。 ましてやニューヨークに生まれ育ったキーンさんにとって、言語的にも地理的にも時間的にも、それらは大いに隔たりのある文書であるはずです。 ところが、その距離を一気に飛び越えて、キーンさんは筆者の傍らにそっと寄り添うのです。 そこには、陳腐な民族観も宗教観も歴史観もなく、心を分かち合える者同士としての、友人としてのキーンさんがいます。 その圧倒的な跳躍、鮮やかな時空移動は、キーンさんならではの離れ技です。 キーンさんは、各々の日記に何がどう記されているかということ以上に、なぜそれが記されたのかに関心を示されます。 それが独り言だったのか、備忘録だったのか、はたまた誰かに読ませることを前提にしていたのか、ならばそれは誰なのか、あるいは特定の人物ではなく後世に伝えたかったのか等々、シャーロック・ホームズよろしく解明を試みられます。 彼は、友人のことをもっと知りたいのですね。 --- 2014/6/3 Naoki |