おちつきなさい

 いろんなことが起こります。そんなときこそ、おちつくことが大事ですね。でも、おちつくとは、どういうことなのでしょうか。

 日本語的には、落ちて(地に)着くわけですから、もうそれ以上は落ちないよということですから、まぁ、じたばたするなという感じですね。「下手の考え休むに似たり」で、あれこれ考える必要すらない。採りようによっては、諦めに近い境地でしょうか。けど、たとえば「落ち着いた行動」と言うとき、それは「諦めた行動」を言いたいわけではないですよね。なので、もう少しポジティブなニュアンスがあるんじゃないかと思うのです。

 では、中国語では何というのでしょう。ネット辞書で調べたら、「鎮定」みたいな感じ、いや漢字。これは、固まってろという雰囲気ですね。鎮(しず)まるという字は、金型に何か入れて固めるような字ですから、じっとしてろ、やはり、じたばたするなということでしょう。では、英語はどうでしょう。"calm down"でしょうか。「平穏な状態に落ちる」みたいな言葉ですから、これもやっぱり「落ち着く」と同様ですね。

 さぁ、困った、「落ち着いた行動」という言葉自体に矛盾があるのでしょうか。そんなはずはないですね。たとえば、スポーツなんかで、コーチが「落ち着け」とか言いますよね。そんなとき、英語では"calm down"以外にも使う言葉があるらしい。たとえば、"Contain yourself! Never fear the opponent! Believe in your team-mates! You can do it! Go!" とかなんとか言って選手を送り出す。この"contain oneself"が、「落ち着いた行動」の「落ち着く」に近いらしい。辞書を引くと、"contain"は「含む」とされています。「自分自身を含め」・・・なんのこっちゃとなりますから、もうちょっとニュアンスを掘ってみましょう。

 "contain"が"con"と"tain"の膠着語だということは、容易に想像できますね。ならば、"con"とはどんなニュアンスか。大和言葉の意味を想像したときの手法を採ってみましょうか。"concentrate"(集中する)、"concern"(関係する)、"conclude"(完了する)、これらに共通するニュアンスは・・・さっぱりわかりません。仕方がないのでちょっとカンニングしてみましょう。Webサイトの「ゴゲンゴ!」(http://gogengo.me/)によると、「ラテン語 cum より。cum は together を意味し、時に「強意」を意味する」のだそうです。"con"は「共に!」というニュアンスみたいですね。

 次は"tain"です。"sustain"(支える)、"maintain"(保つ)、"entertain"(楽しませる)・・・これはなんとなく分かります。なにか維持しているようなニュアンス。"sus"は「下から」なのだそうで、下から維持する=支える。"main"は"manicure"(手指の爪化粧)とか"manual"(手動、手本)の"man"から来ていて、「手」なんだそうです。手で維持する=保つなんですね。"entertain"はちょっと分からなかったんですが、どうやら"enter"とは"interaction"(相互作用)とか"interface"(共通領域)とかの"inter"と同等で、「間」を意味するらしい。間を維持する=楽しませる、つまり、仲を取り持つとか、打ち解け合わせるといったニュアンスなんですね。

 ということは、"Contain yourself!"とは「自分と共にあれ!」といった意味になりましょうか。ちょっとおもしろいですね、「神と共に」じゃなくて「自分と共に」って言うんですから。そもそも、いつだって自分は自分と共にいるはず。風呂でもトイレでもいつも一緒です。なのに、どうしてわざわざ「自分と共にあれ」なんでしょう。それには、「自分」とは何かを考え直さなければならないのかもしれません。

 かつて、サッカーの中田英寿が、一所懸命にプレイしている自分と、それを上空から鳥瞰している自分がいるといった意味のことを語っていたやに記憶しています。ギタリストのエリック・クラプトンは、無心にギターを弾いている自分と、それを冷静に観ている自分がいると語っていました。二人の話が妙に似ているので感心したのですが、プレイしている自分とそれを観ている自分、なんだか自分が二人いるような言い方です。

 哲学者のマルティン・ハイデッガーは、ドイツ語だかラテン語だか造語だかを駆使して、この二人の自分を言い分けています。敢えて日本語で表現するなら、「存在」と「存在者」みたいな言葉です。もちろん、この二つは単一のものを指していますし、「存在する存在者」だとか「存在者の存在」だとか、頭がくらくらするような記述が多々あります。なので、この拙作エッセイ名物、曲解×方便のコーナーと参りましょう。

 存在というやつは、けっこう恥ずかしがり屋でして、たいてい存在者の背後に隠れているんですね。だから、普段見えているのは存在者としての自分なわけです。自分が映った写真だとか動画を見て気味悪く感じられる方がいるかもしれませんが、あれが存在者としての自分の姿です。ところが、自分がとても開かれているとき、隠れていた存在としての自分が現れてくるんですね。そして存在が存在者を照らし出す。そうはいっても、存在と存在者は単一ですから、自分で光り始めると言っても良い。自分が自分と「共に!」現れている瞬間ですね。

 この、二つの側面を持つ単一の存在を考えるとき、どうしても連想してしまうのが物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクの「不確定性原理」。量子(物を構成する最小単位)は粒子であると同時に波動であり、その位置と運動量を同時に観測することはできないというもの。ハイゼンベルクの「不確定性原理」とハイデッガーの代表的著作である「存在と時間」は、奇しくも同じ年(1927年)に発表されています。さらには、ジェームス・ハートル博士とステファン・ホーキング博士の「無境界仮説」(1983年)。これは、宇宙開闢の謎を解くための理論ですが、いわば有と無の境界を得ることはできないといった類の結論を導いているらしく、どこか存在者と存在の関係を連想させなくもない。

 とすると、ハイデッガーも、ホーキングも、ナカタも、クラプトンも、なんだか同じようなことを言っているわけですよ。「落ち着きなさい」、それは「自分自身と共にあれ!」という・・・あ、早い話が、「自分を見失うな」ということですか。最初からそう言えば良かった?


--- 2016/8/6 Naoki




Every time you pick up your guitar to play,
play as if it's the last time.
- Eric Clapton -




If you live each day as if it was your last,
some day you'll most certainly be right.
- Steve Jobs -

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