大和宮庭葛橋の宴

 スティーブ・ジョブズが亡くなって1ヶ月近くが経ちました。 同じ頃、欧米では経済の不条理に抗議するデモや暴動が発生。 ニューヨークのウォール街で失業者達が掲げていた 「仕事(Jobs)を返せ」というプラカードがなんとも皮肉。 早速ジョブズ氏の評伝を購読していますが、 エリック・クラプトンの自伝に相通じるものを感じます。 それは、彼らの最も執着した、そして世界に大きな影響を与えた 彼らの生業、仕事との関係です。

 バブル崩壊からの復興に手間取り、急速な少子化、高齢化にも対応できず、 大震災に次ぐ円高で日本の経済が世界のトップ集団から 滑り落ちるように後退したのはご存じの通り。 各国は、日本に学べ(日本のようにはなりたくない)と考えているようです。 しかし、一見順風満帆な中国の経済にも陰りが見えると言います。 資本主義の解禁が貧富の差を拡大し、富は一握りの人間に集中し、 このまま行けば内側から崩壊しかねないというのです。 欧米のデモや暴動は、いわばその警鐘でもあるのでしょう。 中国企業の有識者は、ものづくりから価値づくりへ、 利潤の追求から調和の追求(中産階級化の促進)へ 舵を取る必要性を主張しているようです。

 我々が正義と信じてやまなかった資本主義が窮地に陥っています。 資本主義は、「競争原理」という至って合理的、且つ、 野蛮な原理に基づいているわけですから、これは宿命とも言えるでしょう。 つまり、中国は世界の縮図なのですね。 経済は、競争原理に基づき、成長し続けてきた。 けれど、それは既に地球規模にまで達してしまった。 これ以上、どう成長しようというのか。 中国なら、国土や沿岸の覇権拡大という手が残されているでしょう。 けれど、地球はこれ以上大きくならない。 子どもの頃から、経済は成長しなければならないという原則を ニュースやなんかで聞かされてきました。 「マイナス成長」とかいう訳の分からない言葉まで聞いてきた。 けれど、もしそうだとすれば、いつかダメになるんだな と朧気ながら思っていました。 だって、地球は有限なのですから。

 人は、齢を重ね、いずれ成長が止まります。 けれど、真価が問われるのは、それからです。 経済活動も、成長が止まってからその真価が問われるのだとすれば、 これからの50年は、これまでの50年と違ったものになるはずです。 経済とは何か、会社とは何か、仕事とは何か、つまり、人はなぜ働くのか。

 今夜、滅多に会えない仕事仲間と飲み会がありました。 仕事仲間とはいえ、同じプロジェクトにいるわけではありません。 部署も違うし、会社まで変わってしまった人もいます。 ただ、仕事への態度や、仕事に対する思いについて、 お互いに敬意を感じる人たちなのです。 だから、今夜の会は、とてもウキウキしました。


各々の名前を拝借し「大和宮庭葛橋の宴」(ヤマトキュウテイカズラバシのエン)と名付けられた。

 仕事とは何か、人はなぜ働くのか、 以前抱えていた部門の若い人たちに向けて、 同じようなテーマでエッセイを贈ったのを思い出しました。 当時は、茫洋としていて参考にならない、 この忙しいときに妙な精神論は困ると思われるのではと懸念もしました。 けれど、いま読み返してみると、いまこそ身につまされる話題だなと思います。 このWEBには未掲載のようなので、下記に転載しておこうと思います。


--- 2.Nov.2011 Naoki



人はなぜ働くのか


「遊びは子供の仕事」などと言われます。 ライオンの子も、おサルの子も、ヒトの子も遊ぶ。 遊ぶのは、興味がある、愉快である、気持ちいい、そんな理由からでしょう。 総括すれば、自分のための行動といえます。 自分が興味がある、自分が愉快である、自分が気持ちいい、、、 なのに、なぜ子供の遊びは仕事なんでしょうか。 これを考えるには「仕事」という言葉の認識を深める必要がありそうです。 そもそも仕事ってなんなんだ?


学生のころ、小生にとって初めてのアルバイトはプールでした。 監視員をする資格はなかったので、塩素剤を入れたり水量を見たり、 果ては脱衣場の清掃などで、仕事=単調なつまらないものでした。 只々遊興費欲しさのアルバイトです。 早く一日が終わってくれればいい。 時計の針が動くのがとても遅かったという印象があります。
次は横浜元町の靴屋でした。 元町とはいえ石川町の駅に近い下世話なエリアで、 そこそこ格好をつけながらもウサン臭い店でした。 元町セールの期間中は、店長から「とにかく売れ!」という至上命令が。 広告の幟を掲げて通りを走り回りながら客寄せをする役目も負いました。 店の奥にはブーツ売り場がありました。 セミルーズのファスナー上げを手伝いながら、 ブカブカだと言われれば「そのほうが疲れなくていいですよ」、 キツキツだと言われれば「革は伸びますからこのくらいでいいんです」。 口八丁手八丁で1本でも多く売ることを心がけました。 如何せん、ブーツ売り場は若い女性客が多いので先輩店員に乗っ取られ、 小生は専ら店頭の安靴売りを任せられました。 小学校6年生くらいの少女を連れたご婦人が来店しました。 ご婦人がゴージャスな毛皮のコートを纏っている反面、 少女の出で立ちがあまりにも質素なので、親子にしては不思議な光景。 興味津々見ていると、ご婦人は奥でブーツをお買い上げになり、 店を出る際、思い出したように店頭の靴をご覧になりました。 そして、980円の似非バックスキンの安靴を手に取り、 「これ、水は滲みないかしら?」とお尋ねになった。 「はい、大丈夫です」とヒゲの店員、とにかく売れればいい。 「あ、そう、じゃスキー場に行くのはこれでいいわね」 ご婦人は少女にそう告げ、その靴もお買い上げになった。 スキー場にそんな寒々とした靴で行くのだろうか。 それに、似非バックスキン、ベチョベチョになるに決まっています。 でも、しょうがない、「とにかく売れ」が至上命令。 そのままやり過ごすことにしました。 ところが、ご婦人が店を後にされるとき、 その少女がやって来て、初めて口を開いた。 「ありがとうございました。」 優しそうな笑顔で小さくお辞儀をし 駆け足でご婦人に追いつく少女。 店員としては、ショックでした。 自己嫌悪に陥りました。
次のアルバイトは横浜スタジアムの整理員でした。 当時は大洋ホエールズという球団のホームグラウンドです。 開場前からスタンバイし、観客を座席に誘導し、 試合が終わったら清掃をして帰るというものでした。 ゴミの大半は焼きそばやカレーやビールの容器ですが、 それに残飯などが混じり独特の臭いがしました。 背負った籠にゴミを集めます。 慣れてくると満杯の籠に飛び乗りゴミを踏み固める芸当も。 通常は、このゴミを大きなダスターシュートに放り込んで終わり。 市の清掃車が後日その回収に来ます。 けれど、それでは済まされない日もありました。 巨人戦です。 観客数が違う。 この日ばかりは、当日の内に数台の清掃車が2往復します。 整理員はダスターシュートの下にあるゴミ溜め部屋の中に入り、 入り口が詰まらないようゴミの山を竹箒で均さなければなりません。 当然、ひっきりなしにゴミが天窓から降ってくる中でです。 ですから、巨人戦というのは一番気が滅入った。 それに加えて閉口したのは巨人ファンです。 横浜でも巨人ファンは圧倒的なマジョリティー。 声が大きく、態度がデカく、我が物顔で球場を占拠するのです。 その日も、あろうことか三塁側(一塁側も大差ないのですが)の 巨人軍応援席を担当することになりました。 なんという不運でしょう。 整理員は、観客の誘導が終わると、 スタンドの狭い通路に折り畳み椅子を置き、 その上に座って客席を監視します。 試合の最中は、ファールボールの注意を促したり、 ボールを回収するといった程度の仕事です。 すぐ前の席には、ご婦人と3人の子供が陣取りました。 ギャーギャーと騒ぎながら巨人軍の小旗を振り回すので、 首を曲げてそれを掻い潜りながらの監視。 まったくもって迷惑な連中です。 ところが、その内の一人の子がだんだん静かになりました。 どうやら「お腹が痛い」と言い出したようです。 お腹が痛くなったのはご婦人の息子で、他の二人は友達のようです。 ご婦人は「仕方ないから帰ろうか」と提案し始めました。 帰れ帰れ、そうすれば静かになる。 ところが友達二人は「えぇ〜?帰るのぉ〜?」と嫌がっています。 呆れたもんだ、子供って利己的だなぁ。 まぁ、整理員としては、 一応、医務室の場所くらい教えてあげる義務があるでしょう。 ご婦人にそう案内すると、一行は早速医務室へ。 五月蝿かった4つの席がポカンと空き、実に平和になりました。 などと安心していたら、20分と経たぬうちに一行が戻ってきた。 お腹が痛かったはずの子は、あら、もう元気になっている。 なんでも、便秘だったらしく、浣腸一発で治ってしまったとのこと。 再び頭上で巨人軍の小旗が翻り、首を曲げながらの監視。 医務室の場所なんて教えなければ良かった。。。 やがて試合が終わり、場内清掃のアナウンスが。 今日は大量のゴミと戦うので帰りが遅くなりそうです。 にも拘らず、例の子供連中はアルプス席の最前列まで降り、 ネットにしがみ付いて帰る気配なし。 子供というのは本当に困ったものです。 整理員としては、眉毛を八の字にして近づき、 「もう清掃が始まりますので」とご帰宅を促した。 ご婦人と子供の一行は、仕方ないわねと帰途に付いた。 そのとき、誰に促されたでもなく、 腹痛だった子が整理員のところに駆けて来ました。 彼があまりにも真っ直ぐ対峙するのでドキッとしました。 子供というのは人の目を真っ直ぐ見るのですね。 そしてこう言った。 「お兄さん、さっきはありがとう!」 そして彼は帰っていった。 整理員は、なぜか胸が高鳴り、頬が熱くなった。 そして、しばらくの間ですが、 何か一つ仕事をしたのだというような 妙な充足感に浸って立っていました。 もちろん、その後すぐにゴミとの格闘が始まったわけですが。
そういった経験の中で、 まだ学生だった小生は、 何かの気づきを得つつありました。 靴屋で心を痛めた「ありがとう」、 球場で胸がドキドキした「ありがとう」、 もしかしたら、仕事ってそういうことなのかしら。 学生は遊興費欲しさにアルバイトをしたまでです。 仕事は遊興費のためにありました。 けれど、仕事ができなかった、あるいは仕事ができたと感じた瞬間、 事実は異なるものを指し示していました。 仕事とは「ありがとう」のための行動なのかもしれない。 給料をもらって家族から「ありがとう」、 力を合わせた同僚から「ありがとう」、 プロジェクトを成功させ上司から「ありがとう」、 良い製品を提供して顧客から「ありがとう」、 あるいは、その先の見も知らぬユーザーからの「ありがとう」、 その声が聞こえる聞こえないに関わらず、 誰かのため、自分以外の人のための行動を、 人は「仕事」と呼んでいるのかもしれない、 ぼんやりとそんなことを考えたのでした。 さて、冒頭に返って、 それではなぜ「遊びは子供の仕事」なのか、 その理由は皆さんの高察に委ねます。

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