Jリーグの黎明期で、少年スポーツが野球からサッカーにシフトしつつあった時代。 まだ保育園児だった息子と近所の公園や小学校の校庭へ侵入し、ボールを蹴っては遊んでいました。 コロコロと転がったボールがゴールに入る度に「ゴ〜〜〜ル!」と誉めてやる、それだけで息子が喜ぶ。 ただその笑顔見たさに球蹴りに付き合っていたように思います。 息子は、2年生からサッカー少年団に入りました。 僕は、それまでの球蹴り遊びと同様、息子に手を引かれる形で練習を見に通っていました。 そのうちコーチの方から「どうですご一緒に」とグランドレベルに降ろされ、コーン運びを手伝ったり、酒の席に呼ばれたりしていました。 今思えば、トラップが仕掛けられていたのですね。 遠征試合に付いて行ってゲームを眺めていると、Sというコーチから突然「それじゃあ次のスターティングメンバーを決めておいてください」と申し付けられました。 仕方がない、「君は何という名前?」などとインタビューしながらメンバー票らしきものを作成。 徐々にコーチ陣へと取り込まれていきます。 このSというコーチが、今回のエッセイのキーマンです。 小さな少年団でしたが、息子の代はいっぺんに16人も集まったものだから蝶よ花よでした。 この中には、カキというサッカー少年もいました。 カキは3年生で転校し、後に因縁のライバルチームとなる別の少年団に移籍します。 さて、当時は高学年中心の活動でしたので、蝶や花もほとんどゲームがなく、ストイックな基礎練習ばかりで気勢が上がりませんでした。 息子を含め、押し並べて学校体育の基礎体力測定では成績が悪く、3年生の後半あたりからはコーチ陣から「史上最低」、練習態度が悪いので「不真面目」、果ては「頭が悪い」などという評価が下されるようになりました。 実際には、後にスローイン遠投で市の小学生記録を作ったイシという子もいましたから、コーチの目というのは大雑把なものです。 「面白くない」、「退団したい」という子も続々と出始め、4年生になると二桁完封負けは当たり前というアカンタレチームが出来上がります。 総スカンとなったアカンタレチームを引き受けた僕は途方にくれていましたが、一人だけ、「彼らは史上最高のチームになる」と言って憚らないコーチがいました。 前述のSさんです。 Sさんは、ご子息が4年生のときこの地域に引っ越して来られましたが、5年生まで息子さんチームを担当され、それこそ我らが少年団史上最高のチームを育てられた先輩コーチです。 そのチーム、6年生の時には様々なトラブルにも関わらず区で準優勝を果たしています。 区には全国区や県で常勝のチームもありますが、それを下して勝ち上がっていますから、この弱小少年団にあっては信じ難いような話です。 何故かその方だけが太鼓判を押される。 指導者が子供達を信じなくてどうするのか、ズブの素人だった僕のような危なっかしい指導者に、最低限の「ピグマリオン効果」を期待しておられたのかもしれません。 キプロスの王ピグマリオンが、生きた女性が誰一人足元にも及ばないような像をつくった挙げ句、その像に恋をしてしまい、神に祈った結果その像が人間に変身した・・・というギリシャ神話があります。 教育上の「ピグマリオン効果」とはこの神話に由来して名付けられたもので、これにはローゼンサールとジェコブソンによる面白い実験結果があります。 この実験では、まず新しく学級の担任になった教師に対して、今後知的能力が伸びると予測される生徒の名簿が渡されました。 名簿に載っている生徒は、実はでたらめに選ばれたものでした。 ところが、新学期が始まり8ヵ月経つと、名簿に載っている子供の方が他の子供より知的能力が高くなっている結果が現れていました。 何故でしょうか。 まず教師が生徒に質問しすぐに回答が出来ない場合の待ち時間については、伸びるとされた生徒の方が他の生徒より2倍も長いという分析結果が判明しました。 生徒を指名するときの質問の内容にも差が認められました。 さらに教師は、伸びるとされた生徒に対しては他の生徒に対するときよりも身を前に乗り出す、うなずく、目を見つめる、微笑する、などのように行動していたことも実証されました。 つまり、名簿に載った子供に対しては、より丁寧な指導を行っていたということになります。 しかも、これを自覚していた教師はいませんでした。 この実験により、指導者の期待行動が生徒の達成の動機に影響を与え、さらに生徒の成績 向上につながっているということが事実として認められることとなったのです。 これが「ピグマリオン効果」であり、その肝は「信頼感」であると思います。 何も信じるよすがのなかった僕は、藁をもすがる思いでSコーチの教えを請いました。 当時22人にもなる4年生チームが、当時許されていなかった女子2名を除く20名で市大会に臨むに当たり、Sさんは先ず全員均等出場、ポジション不定という無茶苦茶なプランを僕に手渡しました。 1ゲーム1ハーフ以上必ず出場、ハーフ毎にポジションが異なる、大会中全ハーフに出場する者は一人も設けない。 他のコーチ達や保護者の間では物議が醸されたようですが、僕は盲目的にこれを遂行し、子供たちは意外にもすんなりとこれに適応しました。 初戦、いつものようにアカンタレ試合を演じた息子チームは、何故か試合を追うごとに活気付き、毎試合ドラマが生まれるようになります。 最後の試合は、リーグ1位突破の本命と目された相手と対戦し、イシに代わって出場したリョウという子が目を見張るような活躍を見せ、勝ちをもぎ取るに至りました。 リョウのお父さんは病床にあり、「退院したら俺もクラブに入って息子と一緒にサッカーをするよ」と仰っておられたそうですが、翌年の春に他界されます。 どうやらその入院中のお父様が観戦にいらしていたようです。 子供というものは、動機さえあれば、突如として神がかり的な力を発揮するもののようです。 Sコーチの作戦には、コーチがサッカーをやるのではない、子供がサッカーをやるのだというポリシーが貫かれていました。 子供が子供たちとサッカーをやる、そのためには先ず全ての観念をリセットして、均等でも良いから子供たちをサッカーに放り込む、サッカーが最高のコーチになってくれるというものではなかったかと推察します。 それはサッカーが、不確定な要素満載の中で、自分で考え、自分で判断し、自分が実行するゲームだからです。 この意思決定のメカニズムというのは、非常に興味深いものです。 人というものは、何かウニウニと考え事をする動物ですが、他の動物と同様、選択しながら生きています。 行くか行かないか、会うか会わないか、するかしないか、そうやって選択し、運が悪かったとか結婚しなきゃ良かったとか愚痴をこぼしつつも、結局は自分が選択し、今という時間を、自分という存在を形作ってきました。 この自己決定権のようなものこそ、人の尊厳であり、自由というものの実体ではないでしょうか。 一人一人が意思決定をしながらゲームというプロセスを形作る少年サッカーは、そのダイナミックな実験場でもあります。 ここに、不可解なことがあります。 人間の脳には、約140億個のニューロンがあり、それぞれ1万個のシナプスで他のニューロンと結合していますが、意思決定が起こるとこれらが一斉に励起するらしい。 神経系の通信方式が化学反応である以上、その通信速度は極めて遅いはずですが、一瞬のうちに無数の通信ノードが反応します。 「ニューロンの発火」と呼ばれる現象です。 何か行動を起こすとき、例えばボールを蹴ろうとするとき、大脳皮質の細胞膜を超越して一斉に電流が流れるのです。 このことについては、過去「自意識について」というエッセイで触れましたけれど、量子力学の観点から説明をしようという科学者たちがいます。 なんでも、神経伝達物質は自由電子を1つずつ抱えており、それがスイッチの役割を果たしているらしい。 これには、ONとOFFだけでなくニュートラルのような状態もあって、電子の不確定性定理により、定常はONとOFF両方に確率的に存在している。 それが、意思決定の瞬間だけ、ONかOFFどちらか一方に一斉に現れる。 これを自由電子の「量子的揺らぎ」の「共鳴現象」で説明できるというのです。 アレキサンダー・ビレンキン博士の「宇宙は無の量子的揺らぎの共鳴からトンネル効果によって瞬時に誕生した」という学説は物議を醸しましたが、ビッグバンやインフレーション理論、ベル研の宇宙背景放射の観測などと共に、今は定説的にすらなってきました。 この「無からの宇宙創造」という現象、脳の意思決定現象に原理的に酷似していると思いませんか。 宇宙とは神の意思の現れ、そんなふうにこじつけてみるのも面白いと思います。 人が意思決定をすると、世界が変わります。 その人も変わるし、周りの者たちも変わる。 そうやって地球の表面は蠢いてきました。 その塵ほどの一角にサッカーのピッチがあり、その上で各々に計り知れない小宇宙を携えた子供たちが、地球に良く似たまぁるいものを追いかけ回しているわけです。 しかもサッカーは、個人主義のスポーツでありながら、仲間、相手、審判が不可欠という「フェアプレイ」精神に根ざした、いわば社会性の本質を備えたスポーツでもあります。 Sコーチのプランは、こういったサッカーの本質をわきまえていました。 それを、何か固定的な正解という形で教え込むのではなく、自分たちで気付く、自分たちで獲得していく、そういうカリキュラムになっているのです。 「子供たちのサッカーにはモチベーションしかありませんよ」と、まるで茶化し屋トルシエのような活性化策に、子供たちは120%応えました。 4年生チームは、続く区大会予選リーグ突破という、我が団では屈指の快挙に至ります。 ここで補足しておくことがあります。 このときのランダムな布陣は僕がこしらえましたが、ある程度の配慮は盛り込んだつもりでした。 ところが、当時ベストメンバーと考えていた布陣は活躍せず、大事な試合を引き分けてしまいます。 そして絶望的と思われたリーグ最終戦、先の市大会に出場すらさせてもらえなかった女子2名を含む頭を抱えたくなるような布陣で快挙を達成したのです。 この4年生秋冬市区大会の中で、息子のプレイで面白かったのは、人並み外れたエースを擁するチームと戦ったときでした。 僕は息子にボランチというポジションを与え、併せて相手エースのマンマークを命じました。 原則は2つ、「ボランチはボールより前に出るな。攻め込まれたらどこまでも下がれ」というもの、もう1つは「相手エースにボールを触らせるな。どんなに強くてもボールに触れなければ何もできない」というものです。 ところが、そのエースは息子などヒラリと交わして得点してしまう。 全く歯が立たないのです。 そこで息子はどうしたかというと、エースを放ったらかしにしてドリブルで攻めまくった。 ベンチから「何やってるんだ!マーク!マーク!」と指示を出しましたが、聞く耳持たずで、結果は逆転勝利でした。 チームプレイ精神の希薄さに呆れ、試合後「勝ったから良かったものの、相手のエースがフリーの危険な時間帯が目立ったぞ。あそこにボールが転がったら一巻の終わりだった」と苦言を呈したところ、彼は憮然としてこう応えました。 「自分がドリブルで攻めていれば『ボールより前に出ない』、『相手にボールを触らせない』、どっちの言いつけも守っているじゃないか!」。 つまらないコーチの観念より、現場の子供の方が発想が豊かだったりするのです。 この昇竜の勢いも、決勝トーナメント1回戦で吹き飛ばされます。 前述したカキのチームに大差完封負け。 プライドをねじ伏せられた子供たちは、試合途中で棒立ちになってしまう始末。 この大差完封負け癖と棒立ち状態は、5年生になっても続きました。 体格の大きな6年生と当たる機会が増え、システマティックなパスサッカーを教わってこなかった息子軍団は手も足も出なかったからです。 その中にあって、3人の子供たちだけが気を吐いていました。 4年生から参加した女子のレイナと転校生のヒサ、そして5年生で他の少年団から移籍してきたジュンです。 彼らは、不要な自意識など持つ暇もなく、無我夢中でサッカーに関わっていたからではないかと思います。 レイナに関しては面白い逸話があります。 息子は、例のボランチ事件からも分かるように、ドリブル突破が好きでした。 なかなか上手に相手を交わすので何かコツがあるのかと尋ねたところ、「抜ける方は白く見える、抜けない方は黒く見える、だから白い方へ白い方へターンすれば抜いて行けるんだよ」。 何の事やら分かりませんでしたが、子供の感性とは面白いものだなぁと感心していました。 レイナは、もう一人の女子で運動神経抜群のマイコとは対称的で、相手を食い止める、ボールを奪うというディフェンシブなプレイが得意な子でした。 やはり男子に比べて非力であったことは認めざるを得ませんが、見かけによらず果敢で逃げないため、よく顔やお腹にボールを受けて泣いていました。 そして、練習で紅白戦をやると、息子はこのレイナだけは抜けないのです。 なんだかんだでボールをもぎ取られることになる。 どうしてなのかと尋ねたところ、彼はこう答えました。 「レイナの周りは真っ黒だった」。 子供というものは、元々が才能の塊なのです。 放っておいても背が伸びる、足が速くなる、できなかったことができるようになる。 大人が妙な操作でもしない限り、彼らは全員成長することができます。 ですから、アカンタレの引導を渡された彼らも、出ると負け状態にありながら、着々とその才能を開花させていきました。 最小兵で、お坊ちゃんで、大怪我もしたショウヘイは、カムバック以降次々とゴールを決め始めます。 横浜国際競技場で行われたコンフェデレーションズ杯決勝の前座試合という晴れ舞台でさえ然り。 あっという間の開花でした。 最後まで問題視されていた連中も地域大会では全員がゴールを決めて逞しくなりました。 中でも5年生から参加したマッキーなどは、6年生の区大会準々決勝の前日練習まで自信なくヘナヘナしたプレイをして「オマエ何やってんだ」とチームメイトから叱られていましたが、本番ではチームを準決勝に導く目のさめるようなシュートを決めています。 もちろん、その後の動きは人が違ったように頼もしく変わりました。 彼らは変われる、彼らは育つ、彼らは未来そのものです。 少年団生活で最後の公式戦となる区大会三位決定戦には、いじめられっ子的存在を返上して今や全員の信望を集めるコウヘイ、最もパワフルだが最もやさしい心の持ち主ヒグチ、背が伸びて俄然逞しくなったカサ、このチームを支えつづけた陰のキャプテンでもあるトモ、全く使えなかった左足を自由自在に使うようになった俊足のシュンスケ、東京に越しても団に通いつづけた筋金入りのサッカー少年シオ、押しも押されぬ番長兼サッカー博士でもあるウエチョン他、現在の6年生在籍選手全15名が(よくまぁ風邪も引かずに)顔を揃えました。 相手は、なんという巡り合わせか、またあのカキのいるチーム。 今まで一度も勝ったことがないどころか、一方的にねじ伏せられてきた強豪です。 試合は、開始早々サンドバッグのように劣勢。 案の定、コーナーキックから先制されました。 しかし息子軍団は夢中で戦い続け、後半には我らがキャプテンのタイチが同点弾。 タイチは、昨年春の試合中に大怪我を負い半年を棒に振りましたが、秋の大会からカムバックして大活躍です。 PK戦では、かつて「不真面目」と呼ばれたそのままに何やら狡賢そうなシュートを連発してゴールを重ね、「文句ばっかりいわれてキーパーなんか面白くもない!今日でキーパーは最後!」と毒づいていたヒサが大活躍して勝ちを拾いました。 このアカンタレチームが初めてメダルを獲得した瞬間です。 皆、最後の最後に満面の笑顔を見せてくれました。 敗れたカキは悔しそうだったけれど、息子は「サッカーをありがとう」と書いたボールをプレゼント、敵も味方もみんなサッカー仲間ということです。 一人ではできないけれど、一人一人が大切な少年サッカー。 僕は、コーチという指導役を担いながら、あまりにも教えられることばかりでした。 |
メダルは単なる金属の円盤だ。けれどそこまでのプロセスが宝である。