ほんの一年半、けど初めての部活だったし、思春期でした。 それは、得意だった体操でも、興味津々のサッカーでもなく、卓球部でした。 小学校時代、滋賀から赴任されていた体育の浜田先生、通称ハマセンが「部活」と称して卓球同好会を立ち上げられ、それに興味をもったのが契機です。 指導者の存在というのは大きい。 そもそも筋(すじ)は悪かったと見え、卯建(うだつ)は上がりませんでしたが、経験だけは他の子どもらに引けを取りませんでした。 当時は「ペンハンド」という難しそうなグリップが主でしたが、欧州選手張りの「シェイクハンド」という、体格に似合わないスタイルを選択しました。 ラケットには様々な形状があり、ラバー(ラケットに貼るゴム)も様々でした。 あまり高価なものは買えないけれども、手頃なラバーで最もニチャニチャしていたバタフライ社の「テンペスト」がお気に入りでした。 カタログの中では、当時のアイドル、南沙織さんがしょっこり笑ってたっけ。 間もなく転校すると知った中2の春、僕は主将に推薦されました。 同級生だけでも県準優勝2名を排出した県下屈指の強豪でしたから、全く予想外の抜擢。 おそらく先輩方が、卯建こそ上がらないが一番に来て卓球台に齧(かじ)りついている小生を面白く感じられたのでしょう。 更に、予想だにしなかったこととして、憧れの女子が親友の女子と連れ立って途中入部してきました。 単なる偶然なのか、それにしては不自然だ、青少年は上気し、悩み、妄想に耽りました。 そもそも女子部員は人数が不足気味で、貴重な存在でもありました。 1学期の最後、橿原の体育館で行われた県大会に、初心者ながら彼女は親友共々出場しました。 主将であるはずの小生は、客席からの観戦です。 そのときの成績など覚えていませんが、確か彼女は1勝したのではかったでしょうか。 最寄り駅を共にするのは彼女だけ、帰り道が一緒になりました。 幸運であるはずのシチュエーションですが、気まずかった。 一言二言交わしたかもしれませんが、道の左右に分かれ、黙々と歩きました。 陽は西に傾いていたはずですが、日差しが真夏のように白く感じられ、駅前通りから住宅街に入った道中は残酷なほど静かで、二人のズック靴の音だけが聞こえていました。
--- 2014/5/27 Naoki |