一見して全部わかった気がして、実は全然わかってなかった、なんてことは日常茶飯。 じゃあ、何事もよく考えて行動せよ、ってことですけど、よく考えてもダメなときはダメ、時すでに遅しなんてのもある。 そもそも、考える、というのは、どういう作業の事を指すのでしょう。 つきつめると、脳の働きというのは、どれも連想ゲームなんだそうです。 憶える、思い出す、この二つ動作が元になります。 ただし、それら出し入れの情報が厳密にペアリングされているわけではありません。 ある刺激を受けたら、それに関連しそうなものを記憶の中から引っ張り出す、それがまた新たな刺激を生む、そんなメカニズムなんでしょう。 おいおい、そんなことはない、思惟思索、ロジカルシンキング(論理思考)というものがあるじゃないか、人は論理展開によって考えるのだ、といったご意見もありや。 間違ってはいないと思います。 ただ、着目しているレイヤ(層)が違うんですね。 いわば、原子の話と有機化合物の話がごっちゃになっている。 論理展開も、脳の機能要素に分解すれば、憶える、思い出す、という連想ゲーム展開なのではないでしょうか。 そうすると、論理展開には弱みがありそうですね。 だって、知らないことはわからないんですから。 憶えている物事の領域から材料を拾ってくるので、知ってる領域からなかなか踏み出せない。 踏み出すにしても、論理の糸を切らさぬよう、少しずつしか進めない。 だから、離れた領域に一気に飛躍すること、気づくことは苦手です。 論理を超越した衝撃的な経験でもしない限り、わからないことはきっとわからない。 言い換えれば、論理展開には必ず前提が必要になるということです。 たとえば、数多の定理を証明した数学者たちはいても、“1”を証明した人は見当たらない。 “0”や複素数は発見できても、それは“1”があったればこそでしょう。 “1”そのもの、すなわち、何かが存在し、それは他と区別でき、数えられるのだ、ということがわからなければ始まらない。 “1”なんてものは公然の事実であり、いまさら理屈を言うな、ということになりましょうか。 都合が悪いとき、論理展開は「理屈」と称されます。 いずれにせよ、論理が公理の正しさまで証明することはできません。 更に、論理展開には、もう一つの弱みがあります。 悲しいかな、遅いんですね。 脳は、一種の計算機と考えられてきました。 計算には、計算機と同様、微弱ながら電気を使います。 ただし、脳の電気信号は、導線を流れるのではなく、イオン交換のリレーで伝達されます。 そんな電流で百数十億というノード(中継点)からなるニューラルネットワーク(神経回路網)を駆使した計算をやるわけですから、速かろうはずがありません。 行動を起こすときも同様です。 椅子から立ち上がるという動作だけで、大小何百という筋肉をほぼ同時に制御しなければならないのだそうです。 「立ち上がろう!」と決心してすぐに立ち上がる、考えてみれば、これはけっこう不思議なことらしい。 ただ歳を重ねると、「よっこらしょ・・」となりますから、そう不思議な動きでもなくなってきますが、、、 そんなこんなで、論理展開は「机上の論理」と批判されたりもする。 言葉を返すようですが、仰る通り論理展開には机上が好都合。 時間も必要、無駄な身体制御も避けたい、そうなれば、机に向かうか、便器に座るか、そういった状態が好ましい。 では、人間というのは、勉強部屋やトイレでだけ考えていればいいのでしょうか。 もちろん、そんなことはありません。 生活しながら、行動しながら、そんなときでも考える必要がありますし、実際に脳は稼働しています。 よくぞ実生活ができたもんだ、ってことですけれども、脳はノロマな計算ばかりやっているわけではなさそうです。 何かに気づいたとき、決断したとき、行動を起こすとき、脳には少々不思議な電流が発生します。 ニューラルネットワークを行き交う線電流ではなく、大脳皮質の表面を走る膜電流です。 一斉に走ります。 これ、「ニューロンの発火現象」と呼ばれ、当拙作エッセイシリーズにおいても昔どこかで触れたと思います。 こういう不思議な現象も伴いながら、考えながら行動する、走りながら考える、人にはそういう営みがあります。 たとえば、サッカーの審判。 走り、走り、また走り、しかも即座の判断が必要になりますね。 それも出鱈目じゃマズい、最適な判断をしなければなりません。 判断後の行動にも様々あり得ます。 たとえば、イエローカード(警告)の場合はある程度タメを作って、ほぉ〜れ、と出すのが重みがあって好ましいのですが、レッドカード(退場)はそうはいかない。 トラブルの拡大を防止するために、速攻で出した方が良い場合があるからです。 サッカー観戦の機会があれば、主審を観察してみてください。 イエローカードの場合、対象の選手を呼び寄せ、一言説明し、その後でオモムロに出す。 交通違反の反則切符のような感じですね。 一方、レッドカードの出し方は違う。 笛を吹くが早いか審判が現場に向かって駆け出し、駆けながら既にカードを高々と掲げている、なんて場面がある。 現行犯逮捕って感じですね。 ただし、どちらの場合も、判断はほぼ即座。 反則の笛を吹いた瞬間には、カードを出すのか出さないのか、出すとしたら何色か、そのお沙汰は決まっているのです。 そんな瞬時に、どうやって考えることができるのでしょう。 何も考えないのでは、正しい判断ができません。 それも、どういう事が起きたのか、どんな状況であったのかというだけでなく、選手にどのような意図があったのか、ルールではどう定義されているのか、実戦的ガイドラインにはどんな事例があったか、そもそも審判の理念とは何だったかといったことまで即座に考えて結論を弾き出しているのです。 論理展開では間に合いません。 何をもって考えたのか、それは「直感」ともいうべき脳の働きです。 直感と言っても、当てずっぽうとか「思いつき」ではありません。 いわば「気づき」のような働きです。 思いつきとは飛躍した思い込み、気づきとは思い込みからの飛躍、それらは似て非なる脳の振る舞いでしょう。 直感には大きく二つの系統があり、その一方は「経験に基づく直感」と呼ばれています。 サッカーの審判が駆使しているのがそれです。 また、昨今ではAI(人工知能)のマシンラーニング(機械学習)に応用され、ディープラーニング(深層学習)という手法が編み出されました。 その後、あっという間にAIが進歩していますね。 AIは、どうやって直感を応用しているのでしょう。 結局のところ計算機なわけですから、原理はやっぱり計算、すなわち論理展開のはずです。 少し調べてみると、「ヒューリスティック」という言葉がよく出てきます。 「ヒューリスティック」というのは、アルキメデスが風呂に入って体積の置換方法に気づいたとき、「ユーリカ!ユーリカ!」(見つけた!見つけた!)と叫んだ、それが語源になっているといいます。 後のアルキメデスの原理、いわゆる浮力の法則に繋がる発見ですね。 つまり「ヒューリスティック」とは、「見つけた的なこと」、「経験からの発見」、「経験による知識」といった意味合いの言葉のようです。 様々な経験から、一定の精度を保ちつつも、できるだけ素早く回答に辿り着く、AIにはその合理性が極めて重要。 そのために用いる特有の演算方法(目的に応じて何種類もあり、用途に応じて様々な組み合わせもある)を「ヒューリスティック関数」と呼ぶらしい。 じゃあヒューリスティックって素敵なのね、と一概には言えず、心理学のような分野では、むしろ問題視すべき対象のようです。 様々な「認知バイアス」の要因になるらしい。 「認知バイアス」というのは、顔がキレイな人は心もキレイ、とか、定価の後に見た特価はお得感満載、とか、大勢が並んでいるアトラクションに自分もついつい並んじゃう、といった、いわば偏見、勘違い、思い込みの類。 「思いつきとは飛躍した思い込み、気づきとは思い込みからの飛躍」と書きましたけれど、だとすれば、心理学で問題視されるヒューリスティックは前者、AIで活用しているのは後者ということになります。 なので、少なくとも後者のヒューリスティックは有用、現にAIでは一定の成果を上げてきました。 今やロジカルシンキングの向こうを張っている、と言っても過言ではないでしょう。 如何せん我々は、ロジカルシンキングこそ正当なもの、真理、あるいは正義と指導され、またそのように捉えてきました。 たとえば、多くの職場で、“PDCA”(Plan, Do, Check, Action)という言葉が唱えられてきたと思います。 「PDCAサイクル」とは、計画的実行の車輪を回すこと、車屋さんが考え付いたんでしょうか。 ロジカルシンキングは、PDCAサイクルのエンジンです。 一方、戦闘機のパイロットならそうはいきません。 交戦中に計画を練っている暇なぞないからです。 そこで、考案されたのが“OODA”(Observe Orient Decide Act)というプロセスで、これを繰り返し継続させることを「OODAループ」といいます。 すべては目の前の現実を認識することから始まる、言い換えれば経験から始まる、それをすぐに行動に反映させ、そのことによって次の現実を捉えて行く。 ここでは、いわば直感が原動力になります。 戦闘機の操縦のみならず、昨今はめまぐるしく社会環境が変化しますから、事業活動や会社経営にまで応用されつつあるのだとか。 ただし、二者択一ということではありません。 論理と直感、PDCAとOODA、これらは互いに補い合う関係を持っていることでしょう。 同様のことが、製品やシステムの安全設計の分野にもあります。 FMEA/FTAといった演繹的な手法と、STAMP/STPAといった勘所を重視する手法がその例です。 音楽の分野だって、たとえばスコア(楽譜)とインプロビゼーション(即興)の関係がそうでしょう。 スコアありきのクラシックでも、練習と本番でずいぶん違ったものになるんだそうです。 本番環境から得る、なんらかの直感の成せる技でしょう。 インプロビゼーションが売りのジャズでも、テーマ、クリシェ、決め、仕掛けといった、いわば計画的アプローチを要することが多々あります。 AIは、その両方を活用する時代に入りました。 もともと得意だった論理展開に加え、経験に基づく直感をも手に入れ始めたのです。 そして、予想よりも早く進化しています。 人類は今世紀中にもAIに淘汰されるのではないか、という声さえありますが、まぁ、そうなのかもしれません。 単純労働に留まらず、事務、運転、診断、手術、経営、行政、政治判断に至るまで、AIが人間の仕事を奪っていくと言われています。 ただし、AIには困難な仕事もあるそうです。 代表例が、看護師さん。 おそらく、保育園や小学校の先生、父母や爺婆の仕事なんかもそうでしょう。 こういった仕事には、温もりだとか表情といった物理的条件を満足する高度な制御技術が・・ということもありましょうが、それだけにあらず、マシンラーニングでは補えないものがあるのではないでしょうか。 直感には大きく二つの系統がある、と先に述べました。 一方は「経験に基づく直感」と呼ばれている。 じゃあ他方は何なんだ、ってことですが、「本能に基づく直感」というものがあるんだそうです。 生まれたばかりで殆ど何も経験していないのに、親を認識するとか、火を怖がるとか、外敵から子どもを守ろうとするといった類ですね。 「経験に基づく直感」は後天的な直感、「本能に基づく直感」は先天的な直感、そう言い換えてもいいでしょう。 強いて言えば、先天的な直感は更に2つに分類できるのではないかと思います。 「遺伝情報に基づく直感」と「進化過程に基づく直感」です。 遺伝も進化も、広い意味では経験であり、おそらくどこかに何らかのかたちで蓄積されているのではないでしょうか。 子孫を繋ぐ生物的な営みが、歴史が、先天的直感を提供し、それに促された選択が、行動が、自然淘汰よりも能動的に我々を生かしてきたのではないか。 個人、村落、人種が生き残るためには、嫉たみ、闘争心、加虐性などに基づく直感が役に立ってきたかもしれません。 あるいは、母が子に注ぐような慈しみ、相手を助けたり喜ばせたりしようとする利他心、今ある暮らしや社会を継続的に繁栄させようとする倫理感、そんなものに基づく直感も育まれてきたはずです。 倫理は後天的なものだろうが、と仰る方がおられるかもしれませんね。 ですが、ここで言いたかったのは、学校等で教わる道徳のことではありません。 それなら、教える人、教わった内容で、如何様にも形成され得る後天的なものと言えるでしょう。 言いたかったのは、それ以前のもの、昔の中国で「仁」と記された類のものです。 今の日本で「仁」と書くと仁侠っぽくなりますから、「倫理」と書いてみました。 生命を持たないAIは、それらの先天的直感を持ちません。 AIが人類に劣っている機能だろうと思います。 良かった、人間にもイイトコあるんじゃん! と、喜んで良いのでしょうか。 直感を、嫉たみ、闘争心、加虐性などに支配されたままの人類が地球規模にまで蔓延すると、世の中はどうなってしまうのでしょうか。 あるいは、慈しみ、利他心、倫理感といったものに基づく直感が、それらを克服することになるのでしょうか。 UCLAのジャレド・ダイヤモンド博士が、現代世界をこう比喩されていました。 今は二頭の馬が競り合っている状況なのだ、と。 一頭は世界の継続的繁栄に、もう一頭は破滅に向かって疾走している、そしてもうすぐ勝負がつく段階まで来ているのだ、と。 恐ろしい話ですが、博士は生徒たちを勇気づけてもいました。 そんなに悲観することはない、ほんの少しだが継続的繁栄に向かう馬の方がリードしていると私は見ている、51%の勝機がある、と。
--- 2018/5/27 Naoki
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