音楽と予定調和
楽譜やコード譜、あるいは歌詞カードといったものを前に演奏ができるというのは、これは一つの才能であろうと思います。
講師はこれが苦手で、ギターフリーターをしていたころは商売になりませんでした。
ですから、こういう読譜能力や初見弾きというのは、プロミュージシャンにとっては死活問題で、とりわけ音楽大学出身者でない連中は必死の思いで練習していました。
一般に音楽大学出身者の方というのは初見が得意で、それは我々が普通の文章を音読するときに、実際に声に出しているくだりよりも先を目で追うことができる先読みの能力や、文字ひとまとまりを言葉として認識しながら読むまとめ読みの能力が、彼等にとっては楽譜にも当てはまるということのようです。
文字を理解する能力に例えると、我々の場合「『キ』に点々だから『ギ』でしょう、それは知ってるんだ、次が『タ』、その次の長い棒は数字の『1』か?いや、『ギタイチ』はおかしい、ならば『タ』を延ばせということか?」なんてしどろもどろなものを、彼等は「ギター」と一瞬で認識してしまうということです。
ギター教室によっては、まず読譜から訓練するというところがあるようですが、商業音楽を志す方にはそれが賢明でしょう。
「夏の日のメリスマ」という講義で、講師は「西洋的音楽」とか「カラオケ的」という言葉を使用しました。
これが何を指しているのか分かり辛いという方もおられたでしょう。
西洋的音楽を説明するには多くの言葉を費やさなければならないでしょうが、非常に短絡的に言ってしまえば「五線譜の音楽」のことです。
五線譜は東洋でも使っていると反論される方がおられるでしょうが、方便ということで、ここではそうしておきましょう。
すると、西洋的音楽の持つ一つの側面が見えてきます。
西洋的音楽は、その美しく糾える対旋律や、ダイナミックなブリッジの盛り上がりが「予定」されている音楽なのです。
この予定調和の最たるものがカラオケなわけで、MIDI(自動演奏のためのインターフェース規格)でレコードそっくりにプログラムされた伴奏が流れ、若い男女がわけもなく走っている海辺のVTRには伴奏とタイアップして歌詞のテロップが流れます。(講師は何度も行っているのでよく知っています)。
どんなにヒドい歌が終わっても、座が白けるのはいけませんから、同席した人は歓声と拍手で迎えてくれます。
絵に描いたような「予定調和」。
例えが悪いかも知れませんが、西洋的音楽というのは、これとよく似た側面を持っているのです。
この五線譜の音楽の対極にあるのは、ある意味ではインプロビゼーション(即興)という手法です。
その代表としてジャズを挙げることができます。
ジャズでは、一応のテーマのようなものはあっても、プレイヤーはそのテーマのメロディーを思いのままにフェイクする(他のものにすり替える)ことができますし、ソロパートでは小節数もお任せで自由にアドリブ(即興演奏)させてもらえます。
他のプレイヤーは、ソリストの演奏を自由な発想でフォロー(追従・補足)できますし、またフォローしない、あるいは先に仕掛けるという選択肢も与えられています。
ジャズは西洋的音楽を超越しているのでしょうか。
ところが、ジャズもまた、充分に予定調和性を持ち合わせています。
ジャズは、むしろ五線譜やコードスコアといったものを多用します。
ある一定のコード、あるいはモードに沿ってみんなが自由に合奏するためには、理論が必要となったからです。
ジャズ理論は、音楽的慣用句を発掘し、その応用系を導き、タブーを明示して、それさえ守ればどんなに自由にやっても必ずうまくいきますよという約束事の上に成り立つのです。
もちろん、前衛的なジャズミュージシャンたち、例えばマイルス・デイビスやセロニアス・モンクといった人たちが、そういった理論を逸脱した新境地を開拓して行きました。
しかし、一旦それが素晴らしいとなると、後続はすぐに勉強をして、その要素をジャズ理論に継ぎ足して行きました。
こうやって成長していったものがモダンジャズであり、非常に複雑で洗練された理論が確立されていきましたけれど、反面だれが聞いても「あ、ジャズだ」とわかる代物に定着しました。
そういう背景は、ジャズミュージシャンたち自身がよく理解していたわけで、そこからフリージャズという一連のムーブメントが起こったことがあります。
日本ではピアノの山下洋介さんなんかが有名でしたけれど、ジャズ理論というものを想定しない演奏スタイルは、ロックに対してのパンク・ムーブメントの先例となったようにも思えてきます。
それは演奏スタイルそのものにも及び、ギターに小麦粉をかけてみたり、折ってきた枝でドラムセットを叩いてみたり、様々な興味深いミュージシャンたちを輩出しました。
日本にフリージャズを紹介した第一人者が、故・間章(あいだあきら)という方で、講師は雑誌で幾つかの評論を見かけたことがありました。
しかし、講師も若かったですし、難しくてよく理解できなかった記憶があります。
偶然、間氏と親交の深かった木原知之という方と知り合いになることができ、その人にレコードを借りたりいろいろな話を聞いたりしていました。
鼻歌でフリージャズを歌うという非凡な才能の持ち主でしたが、多くを聞き出すことができないまま離ればなれになってしまいました。
その人によると、間氏は最後に訪れたフリージャズ・クリニックのような催しで、「フリージャズは死滅する」と予言されたそうです。
間氏の思いがどのようなものであったかは計り知ることができませんが、講師が個人的に感ずることは、フリージャズもまた予定調和性の強い音楽であったということです。
それは、「フリージャズであるという予定調和」です。
講師は、例えばギターに小麦粉をかけるという行為自体に予定調和を感じました。
フリージャズでなくてはならない、音楽として認識されなければいけない、そういった呪縛が、フリージャズを自己崩壊に追いやったのではないかと想像しています。
音楽は、これらの例のように、多かれ少なかれ予定調和性を持ち合わせていますが、西洋的音楽というときには特にその比重が増します。
しかし個々の演奏においては、そうでない要素、偶然調和性とでも言いますか、そちらの方に本質があると思います。
お世辞にも上手とは言えないプレイヤーの、例えば素人と呼ばれる我々仲間のライブを見に行ったときでさえ、とんでもない感動を覚えることがあります。
それは、偶然うまく弾けたとか、偶然予定通りにことが運んだというものではありません。
むしろ逆です。
予定されていないハプニングがきっかけとなって、我々に感動の矢を立てるのです。
それは、多くの場合演奏者にとってもハプニングです。
演奏が始まったとき、そこには出会いがあったわけですが、実はそれ自体すでにハプニングなのであって、そのことを改めて認識するとき、初めて音楽が共有されるのです。
そのとき、演奏者を含めた我々聴衆は「音」ではなく「人」と接しており、言い換えれば「自分」を聞いています。
この一瞬の共鳴が、五線譜や音楽記号で表現できるものとは思いません。
こういった偶然を必然的に管理しようと試みたとんでもない音楽家もいました。
ジョン・ケージです。
彼は自然を愛し、庭を愛し、キノコを愛した親日派、ないしは好東洋派の音楽家でしたが、偶然ですら必然の内に取り込もうというのが、いかにも西洋人らしい、いかにも例の一神教の文化圏らしい発想で、講師は彼の誠実さと少年のような好奇心、そして哲学者のような思慮深さに大いなる好感を持っています。
彼のことを紹介し始めると話が長くなりすぎますので、ここではそういう人もいたという程度に留めておきましょう。
この講義において講師は、「西洋的音楽はカラオケと同じ予定調和だからだめだ」と言っているのではありません。
東洋的音楽にも予定調和性は必要です。
ただ、その予定調和の完成に邁進するだけでは、それはカラオケ的であると思いますし、音楽の殻の部分が完成するに過ぎないと思います。
この「森の音楽教室」を訪れた生徒諸君は、是非そのことを念頭から失わないでください。
本講義が、核心を遠巻きにした状況証拠の呈示に終始してしまったことを講師は反省していますが、最後に分かり易い一つの命題を投げておきます。
音楽は人です。
それを切り離して考えるのはお粗末というものです。