歌詞の行方

 音楽には様々な姿がありますが、講師が最も興味を持っているジャンルは、その中でも「歌」と称されるものです。 歌にもまた様々なジャンルがあって、それらを定義したり分類したり解析したり或いは評価したりといったことは講師の技量では不可能ですが、安直に言えることは、歌には歌詞が介在しているということです。 では歌詞を伴わない音楽とは別のものかというと、そうではなく、むしろほぼ同じであると言って良いと思います。 音楽に歌詞が介在する場合に決定的に影響を受けるのは、受け取る側(聞き手)ではなく送る側(作曲者、或いは表現者)であり、これからライブをやろうというときや、さあみんなで唱いましょうなどというとき以外はあまり意識しないものです。
 歌詞というものは、楽曲を組み立てたり演奏したりするときの動機付けや礎となることがあります。 また、ものによっては聞き手にも大きく影響を及ぼします。 特に聞き手が聞きながら、或いは後に自分でも反芻して歌いたくなった場合に、歌詞はその人の世界で新たな動機付けを開始します。 そういう意味で、歌詞は音楽の部品であったり裏打ちであったりメインディッシュであったりします。 この場合敢えて「言葉」と呼ばず「歌詞」と呼ぶのは、言葉の持つ一次的な意味合いだけではなく、実際にそれを声に出したときの音、リズム、ニュアンスなどをひっくるめたものを差したいからです。 従って、歌詞は文字ではありません。
 コードやメロディーラインの話と違い、歌詞というのは実に多種多様な世界で、短歌・俳句からお経・ラップに至るまで言ってみればどれも歌ですから、それらについて論じようというのはあまりにも壮大過ぎるテーマです。 ですから、この講義で取り上げるのは、講師が歌を書く上で何を意識しているかといった極狭い範囲の内容です。 興味のない方は、本講義に真面目に付き合う必要はないと思います。 しかしどうしてもこのような講義を持ちたかったのは、歌を書いたり歌ったりする方々に一寸したヒントとなり得ると考えたからです。 本講義が正しいということではなく、あくまでもヒントとなり得るだろうということです。
詩歌と歌詞

 短歌・俳句が歌だといっても、本講義ではそれらを歌詞という範疇から外したいと思います。 確かにそれらを「詠む」ために、メロディーやリズムといったものが必要なのかも知れません。 講師はその「音楽」を知らないので、万葉集だの朝日歌壇だのを見るときは、正に「読む」だけです。 しかし、短歌・俳句は、それだけでも充分にものを言う言葉の芸術です。
 それに比べて、歌の歌詞というのは殆どの場合、活字にすると他愛のないものです。 講師の最も好きな歌の一つに「上を向いて歩こう」というのがありますが、歌詞だけ読んだってどうってことありませんよね。 別に永六輔さんの悪口を言っているのではありません、歌詞はむしろそうあるべきだという考え方もできます。 そこに中村八代さんのメロディーが付いて初めて素晴らしい世界が誕生します。 それを坂本九さんが歌えば、これはもう涙が出るほど素晴らしい世界に広がります。 歌詞は楽曲と結合することで初めてその姿を現します。 そういった意味で、詩歌と歌詞を区別して考えることは実際に音楽を仕上げるときに大いに役に立ちます。
 歌詞は、多分に未完成な詩歌ですが、根底の部分では相通じるものがあると思います。 それは、言葉にならないものを言葉にしようとする努力のようなものです。 詩歌には少なからず矛盾のようなものが含まれていますね。 「空は青い」という一文には、「そうですか」としか応えようがありません。 一方「空は残酷だ」と書かれると、「どうして?」と疑問を抱きます。 この「空」と「残酷」という言葉の飛躍から詩が始まります。 これは技法の話ではなく手段の話です。 歌詞の場合もこれに近いものがあります。 日記を読み上げるような歌詞しか書けないとお悩みの方は、いらない言葉をどんどん削除してみれば良いと思います。 そうすれば、必要な言葉だけが残り、それら言葉と言葉の間にあるものが浮き彫りになってきます。 文字にすると一見飛躍しているように見えますが、そこには言葉をつなぎ止めている一連の何かがあるはずです。 詩歌はその何かを言葉の組み合わせによりいわゆる「行間」で表現する手段ですが、歌詞は音楽との結合を手段に選びます。 ですから、必ずしも言葉そのものの飛躍を意識しなくても良いと思います。 むしろ、言葉の背後にある音楽が重要です。
 言い換えれば、楽曲と歌詞との間に「行間」が生じるわけです。 この「行間」こそが聞き手の入り込むエリアです。 短調は悲しい感じ、長調は楽しい感じの響きがしますね。 楽曲の持つ雰囲気は歌詞にダイレクトに反映されます。 確かにそうなのですが、その楽曲と歌詞を繋ぎ止めるものは、「短調は悲しい感じだから」といった理屈ではなく、作者が具象化したくてならない音楽そのものです。 典型的な例を挙げてみましょう。 人気デュオであったサイモンとガーファンクルのヒット曲に「バイバイラブ」というのがありました。 歌詞は失恋の悲しい内容を綴っていますが、これが極めて明るい曲に乗せて演奏されます。 この矛盾にメタファ(≒暗喩)があります。 ですから、講師の経験からすれば、歌詞は音楽と共にやってきます。 講師は歌詞を書き貯めして時間のあるときに曲を付けようと試みたことがありますが、只の一曲も音楽になったことがありません。 作詞しているとき、背後に音楽が感じられなかったのなら、その人にはその歌の作曲は無理かも知れません。
韻文と散文

 マザーグースや中国の古詩は、言葉が一定のリズムのリフレインになるよう配慮されているいるだけでなく、脚韻といって各センテンスの終わりが同じような音で括られるような工夫も施されていますね。 逆に頭韻というものもあって、やはり印象付けの効果があり、ヒトラーはじめ政治家の演説なんかによく用いられます。 話を元に戻しましょう、ここでは脚韻について述べます。 欧米のロックやポップスの殆どには、脚韻という技法が常套的に使われています。 それどころか、「脚韻辞典」のようなものがあるらしく、日本の歌謡曲の作詞家がティーンエージャー達に好きな言葉のアンケートをとって作詞のヒントを得るように、こういった言葉遊びの中から作詞の糸口を見つけている人もいるようです。 しかしながら、晩年のジョン・レノンはこの手法に疑問を抱き、もう“moon”と“spoon”なんて語呂合わせで歌を書くのはやめたと、散文による作詞への志を吐露したといいます。
 さて、日本語の歌詞はどうかというと、五七五のような音節に気を配った定型詩のようなものが多かったですね、以前は。 何故かこういう音節のリズムが我々の身に付いているように思います。 艶めかしいお姉さんがしょっこり笑っている防災ポスターに、「つけた火は、ぜんぶ消すまで、あなたの火‥」なんて書いてあるのを見ると思わず足を止めてしまうのは講師だけでしょうか。 いやそんなことはどうでもいいんですが、一昔前の唱歌にはこういったノリの歌詞が多かったですね。
 ところが、脚韻を踏む歌詞というのはあまり無かったように思います。 これは、日本語の文法上、センテンスの末尾が一般的には述語になってしまうということと関係があるかも知れません。 欧米の場合、ドイツ語など多少単語の配置が違う言語もありますが、おしなべて最も重要な言葉を末尾に配置できるような文法になっていますから、脚韻の効果は上がります。 一方、日本語の場合は、体言止め(名詞を末尾に配置するような構文)などの工夫を凝らさない限り、音だけ合わせても印象が薄いということがあろうかと思います。
 講師は日本のポップスを語れるほどそれを知っているわけではないのですが、嫌でもBGMやCMなどで耳にするので、最近(1997年現在)の傾向というものを薄々感じています。 最近は、欧米の歌詞に感化されたか、脚韻を工夫している歌詞が多くなってきたようですね。 日本語の場合は確かに難しいので、むりやり語呂合わせをしたり、仕方がないので末尾の部分だけ英語に置き換えるという手法が目に付きます。 特に、ダンサブルなビートが全盛を極めましたから、歌詞もそれに乗りやすいものがいいようで、言葉の持つリズム感を高める工夫の一つなのだろうと思います。 しかし、印象としては、やはり無理がある。 いかにも作りましたという感じが強すぎて、聞いているのがなんとなく恥ずかしいようなものが無きにしも在らずです。 リズム感のある、あるいは流れのある歌詞には散文よりも韻文の方が適していると思いますが、あまり脚韻にこだわらず、もっと言えば脚韻を踏んでいることくらいで工夫を怠らず、日本語の言葉一つ一つの持ち味の活かし方に気を配る必要があろうかと思います。 言葉を大事にすることです。 日本語は不利なように感じられるかも知れませんが、それは欧米の楽曲の真似ばかりするのならそうかも知れませんが、逆に欧米にない素晴らしい歌への可能性を携えているのだと考えてはどうでしょうか。

--- 28.Nov.1997 Naoki

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