講師の、個人的で、限定され、著しく乏しい経験の中でさえ、音楽を行為するための幾つかの原則が認められます。 それは、その行為者が「音楽」という言葉をどう認識し、どう位置付けているかという本来的な問題と深く関わっているでしょう。 ところが、それはその人が最初に定義した常識であったとしても、音楽活動という旅を続ける中では、しばしば改善され、追加され、変更され、否定され、時として根底から覆されながら変遷しうる命題です。 今ここで紹介しようとしているのは、1999年現在の講師の経験に基づく幾つかの命題ですが、聴講者諸氏はそれらを鵜呑みにしてはいけません。 かといって、それらの原則論に最初から目を伏せてしまうのは、この教室を訪れた誇り高き諸氏らしからぬことだと思います。
1.音楽は作品ではない
音楽は、小説、絵画、彫刻、もしくは建造物といった、いわゆる芸術作品の一種のように見えて、実はかなり異質のものです。
楽譜やCDといった記録媒体が普及しているお陰で、音楽もまた作品であり、知的所有権があり、また報酬の期待される製品たり得るようですが、音楽そのものは、そういった物質的存在ではありません。
音楽は、無形であり、時間であり、強いて例えれば時空に相当する器のようなものでしょう。
それは一過的で、敢えて類似するものを挙げれば、演劇、手品、口上、大道芸といった芸能に属する行為であろうと思います。
それら他の芸能から際だっている点は、後述するところにあろうかと思います。
2.音楽は所有されない
非常に曲芸的な音楽でさえ、特別な訓練を積んだ人でなくても受け入れることができます。
受け入れられた音楽は、作者や表現者となんらかの意識の共有を持ちながらも、受け入れた人の中で独自の世界を拡げ、ある種の意味を持ちます。
それは、受け入れた人の個性や経験的総和といったものと表現された音楽との関わり合いによって認識され育まれるものではないかと思います。
受け入れた人は、独自の形で表現に参加したり、また別に再現を試みることもあるでしょう。
そういった意味では、一過的とはいえ、音楽は他の芸能に比してかなり自然に、また個性的に受け入れられ、受け継がれるものではないかと思います。
更に言えば、表現者の期待する画一的な受け入れられ方ではなく、個性的で能動的な受け入れられ方(変な言葉ですが)をする点が、音楽の特徴の一つであろうと思います。
音楽は、表現者から離れ、第三者を訪れ、新たな命を与えられるという運命を孕んでいるように思います。
これは、表現者にしてみれば我が子のようなもので、自分が産み育てたつもりでも、実は独立した人格を有し、独自に変化していくことに似ています。
一方、表現者を自負する者にしてみたところで、とりわけ無から何かを生産したわけではなく、自分を訪れる様々な音楽との関わり合いの中から、その落とし子を身籠もり出産したまでのことです。
音楽に対する著作権は、音楽という産業の面からは非常に重要なことですが、音楽そのものには全く無関係なことがらです。
更に言えば、商業音楽の多くが、かなり音楽から遠い意識のもとに提供されているということを納得しておく必要があるでしょう。
さて、以降の原則について、講師は時間のあるときに勝手に追記するかも知れませんが、前述の二つの原則同様、その本当の解釈は賢明なる聴講者諸氏に委ねます。
3.音楽は形を持たない
4.音楽は終了する
5.音楽は引き継がれ変化する