ライブの報酬
ここのところ、知人のライブが目白押しでした。
PUGS、PAPAYA PARANOIA、Ubik(NaO2)と次々にお誘い頂いて、僕はどれも行くつもりでした。
道程を再確認し、充電したデジカメなどを携えて出勤。
何か発見したらエッセイのネタにしてしまおうという企み含みですね。
けれどまぁ、最近は多方面に関わる仕事が多くて相手のある話だから穴も開けられず、さしもの穴開け名人もお手上げの毎日。
悔しい思いの一週間でした。
スティーブ衛藤がよこしたメールが印象的だった。
「残念だ、お互い縁が無いのだ!一生の課題だ。」
幸い自分のライブは日曜日、良く晴れたいい日和でした。
最近の友人は殆ど来てくれなかったですが、その代わり十数年ぶりみたいな旧友が駆けつけてくれました。
駆けつけて、涙を流して喜んでくれましたぞ(注:別に泣かせの曲じゃないですぞ)。
この年代になれば、みんな忙しい。
ライブハウスに来るというだけで、それは大変な支持の現れだと思います。
旧友に感謝。
この日はのっけからエネルギーが湧いてきたんです。
ライブはワンマンではなく、同じような弾き語り野郎が三、四人順番にやる格好です。
僕は大抵最後に回されるので、他の人達が演奏する間じっと待っているわけです。
特にアピアという小屋は、自分の前の人が演奏している間、楽屋とは名ばかりの炊事場兼物置に閉じこめられます。
あるのは、出演者の機材、得体の知れない段ボール箱、時折水の漏る流し、冷蔵庫、椅子、鏡、そして灰皿だけ。
ここで気持ちを静めてからステージに上がるのが常です。
この日、前の出は「なかむらまきこ」とかいうキーボード弾き語りのお姉さん。
これを楽屋で聞いていて、エネルギーが湧いてきた。
その人がやろうとしていたことに、珍しくとても共感できたのです。
だから、その人が息を吹き込んだ空気を引き継ぐ形でステージに上がれたのはとても幸運でした。
バンド活動を含めた長いライブ経験の中で、こういうエネルギーのもらい方は初めてです。
ステージに上がると、今度はどんどんお客さんからエネルギーを注ぎ込んでもらって歌うことができました。
客席は満員だったけど、その殆どが初対面の若い人達。
彼等は、しかし、むしろ鮮明に感動を体現してくれて、こういう一期一会というものも素晴らしい関係だなと思ったりしました。
「ライブをやると何かいいことがある」、そう感じるようになったのは弾き語りを始めてからです。
バンドをやっていたときには、結局自分をさらけ出すこともなく、一期一会の有り難みも知らず、アレンジがどうだったとか演奏がどうだったとか、そんなレベルでしかなかったのだろうと思います。
はっきり言って、弾き語りは辛い、かっこ悪い、寂しい、楽しくなんて全くないですよ。
でも何かあったりする。
だから、もう一回だけ、もう一回だけ、と呟きながら続けてしまっているのが現状です。
反面、この日のギターは不調で、6弦(一番低音の弦)がどんどん緩んでくる。
練習の時もリハーサルの時も全くその兆候がなかったのに、古いギターですからブリッジ(ボディー側で弦を支えるところ)の穴が摩耗してしまっているのかもしれません。
いつもはギターに助けられながらのライブが、逆に歌声でギターのずれを補うという格好になりました。
僕はバンドでも歌っていたことがあり、このときは不評。
お客さんに申し訳なかったと反省することもしきりでしたし、バンドのメンバーからも随分酷いことを言われたものです。
ところが、弾き語りをやるようになってから、どうやら聞くに耐えるものになったらしく、時折褒めてもらうことがあります。
少なくとも、今回のライブに向けた練習では、自分自身が自分のボーカルを気に入る状態になっていました。
自分で自分のファンになるなんて、余程のナルシストでなければ無理だろうと思っていましたが、ある時フッとそうなるもんですね。
特に根拠もないし、技巧的にどうしたこうしたということもない、ただフッとそう実感するようになったわけです。
自分を自分が支持している、大事なことです。
けど、それ自体が歌い続けるための動機にはならないですね。
エネルギーが必要です。
幸い今回のライブではエネルギーを得ることができた。
少なくともそこにいた人達は、僕が感じた限り、一人残らずその音楽を受け入れ、反射してくれていました。
これがライブの報酬。
だから、もう一回できると思う。
綱渡り的ではあるけれど、これが僕の音楽活動。
表現者は、一人では存在し得ないからです。
後何回できるでしょう。
やれるところまで、しっかりやりましょう。
--- 10.Mar.1998 Naoki