表現する人


 僕は、いわゆる合宿免許というやつで自動車に乗れるようになったんです。 山形県の米沢とかいう温泉町が合宿所で、3月上旬であったとはいえ、実に雪深いところでありました。 練習路のS字やクランクなんて、教習所案内の写真ではタンポポの咲く長閑なコースなのに、実物は雪の壁、全てブラインドカーブという有様でした。 路上教習ときたひには、轍で横滑りして対向車に衝突するという事故を2件も目の当たりにしましたし、坂道では2速発進という凡そ初心者向きではない道路条件であるのに、何故か自分だけチェーンの巻いていない教習車でした。 当然、特別な装備になっているのであろうと思い、「これは、スノータイヤというやつですか?」と尋ねると、 「いんや、そうではねぇな。」 「スタッドレスとかいうやつでしょう?」 「そうではねぇ。」 「それじゃ、何というタイヤなんですか?」 「まぁ、あれだな、オールシーズンタイヤってやつだな、ダイジョブダイジョブ。」 要するに、チェーンが足りなかっただけのようです。 お陰で雪道の怖さはよく理解できましたが、それにしてもスキーなどで雪国に赴くことのない自分には見る物全部珍しく、二階の屋根から地面まで巨大なツララが下がってみたり、子供が歩道のクレバスに落ちてみたり、四分の三ほど雪に埋もれた電柱の頭から翼長2メートルはあろうかという猛禽(多分クマタカ)が飛び立ってみたりと、とても面白いところでした。
 一人というのは心細くて、大学の友人の宮本悦次郎というギター弾きと一緒に行きました。 が、宿舎はいわゆるタコ部屋というやつで、地元のアンチャン、早大ボクシング部のパンチドランカー、博士風の東大生などと、夜な夜な酒を酌み交わしては楽しく過ごすことができました。 話題は専ら各々のバックグラウンドだとか将来の夢だとか、そしてやっぱり運転や交通法規に関すること。 誰かが「道交法の定める軽車両を挙げなさい」なんて問いをかけると、みんなが習い立てのことを答えるという具合。 「自転車。」 「荷車。」 「牛馬。」 「牛や馬が軽車両?なんか変だな。」 なんて会話になる。 すると、いつも物静かな例の博士風の東大生が、独り言のようにボソッと言いました。 「自己表現能力のある馬は軽車両か?」... 東大生には珍しくというと語弊があるかも知れませんが、幼児教育を志していたその「博士」の一言をジョークと捉えるのに、みんな約1秒半程度の時間を要しました。 「じゃ、自己表現能力のない人間は軽車両か?」 なんて折り返してへらへら笑っていたのを記憶しています。
 自己表現能力。 きっと何か専門用語なのでしょうね。 私は何の何某ですと自己紹介する能力をいうのか、または言葉や身振りや創造物を介して自己の存在をアピールする能力なのか、或いはもっと別のことをさすのかは知りません。 直感的に感じるのは、自分の心的欲求を呈示する能力のようなものですかね。 いわゆる芸術的行為というのも自己表現の一つの姿のように思われますね。 僕は僕なりに芸術という言葉を整理しているので、それが「自己」の「表現」と等価かどうかということには疑問を持っていますが、無縁でないという気はしています。 そういう意味で、自己表現能力を持ち、それを行為する人、それを芸術家だの音楽家だのダンサーだのストリートパフォーマーだのと名付けることがあります。 一応、そういう名前が付くと、みんな安心するのです。 「俺達ラッパーはさぁ」とか「最近のアーティストは」とか言って、安心するわけです。 しかしです、その辺が僕にはどうも臭うのです。 どうも臭い。
 今は亡き岡本太郎画伯が某テレビ番組で、「自分にパンされたら両手を拡げて『岡本太郎だ。芸術は爆発だ』とお願いします」という注文を付けられて憮然とし、「空を飛ぶ鳥に名前がありますか」と答えたという話を聞いたことがあります。 大凡の人は奇人の奇言として面白可笑しくこの話を捉えたかも知れませんが、僕はこの太陽の塔の爺さんがむしろ痛々しいくらい純粋な人間に思えてなりませんでした。
 キングクリムゾンというバンドの中心的人物であるロバート・フリップが、「ブルーム」や「スラック」というアルバムを出した頃、プレイヤー誌のインタビューに答えたこんな言葉があります。 「そこにクリムゾナイズされた音楽があるとき、遅かれ早かれ我々が登場する。」... これまた奇人の奇言と捉えられたかも知れませんが、これは気取りでもジョークでもなく、本音であったであろうと推察します。 「我々はキングクリムゾンだ」ではないのです。 先ず、そこに音楽がある。 だから我々表現者が出現する。 これは、とても重要な発想だと思います。
 そうかと思うと、音楽的表現能力をさして「プレイヤビリティー」という言葉を使っている自称ミュージシャンがいたのを記憶しています。 プレイ・アビリティーの短縮語のつもりか、たぶん演奏能力というような意味であろうと思います。 この言葉を聞いただけで、その人がどの程度の「音楽家」であるかは見て取れました。
 では、表現能力とは何か、僕はそれが二つの能力をバインドしたものであろうと考えます。 一つは、発見能力、つまり表現すべきものを見出す能力です。 教育学的にはそれが自己同一視的観念をさすのかもしれませんし、岡本画伯には爆発する何かなのかもしれませんし、フリップさんにはクリムゾナイズ(これはフリップさんの造語と思われます)された音楽なのかもしれません。 それを見出す能力が先ず必要でしょう。 そしてもう一つが、伝達能力、つまり表現すべきものを具現化する能力です。 これにはいろいろな要素があるでしょう。 「もの」にする能力はもちろんですが、それを社会的にどう発信するかという問題もあるでしょう。 いずれにせよ、発見能力と伝達能力、言い換えればオリジナリティーとプレゼンタビリティー、この両方を併せて表現能力なわけです。 英語で「表現」のことを“representation”というようですね。 語源はよく知りませんが、短絡的に解釈するなら、「再び・提供する」といった感じの言葉です。 それは、在るものを捕らえ具現化して呈示する、即ち発見し伝達するという発想と直感的に一致します。 僕が時々口にする「表現者」とはこのような能力を有する人間であり、「表現」とはこのようなことをさしています。
 音楽が表現の一手段だということは、多くの人が認めるところでしょう。 しかし、この意味において、少し違った発想をする人もいます。 以前、パパイヤパラノイアというバンドの中心的人物である石嶋さんとお話をしたとき、作曲の能力について彼女はこんなことを言っていました。 「もし貴方が砂漠を一人で歩いて行かなくてはならないとする。 あまりの退屈さのために、きっと鼻歌を歌うことだってあるでしょう。 でも、知っている歌には限りがあるから、何度も歌っている内に、いずれは飽きてしまうでしょう。 ところが、作曲できる能力を持っている人は、そこで新しい歌を作ることができる。 だから、作曲できる能力とは、ことほど恵まれた才能なんです。」 僕は、この発想に正面切って異を唱える自信はありません。 でも、本当にそうだろうか。 僕には、彼女のいう砂漠というものが、いったいどのようなものなのか考えさせられました。 そして何となく、人に囲まれた、ある種安全な砂漠に感じられました。 その人は、たまたま人里離れてそこを歩いているけれど、実は出発点にも終着点にも知人がいて、彼はその予感の中を漂っているだけではないかという気がしたのです。 大学時代、電磁気学の試験に、「一つだけ電子のある無限大の宇宙Sがあるとき...」などという訳の分からない問題が出たりしたものですが、この砂漠の旅人は「回路C内の閉じた空間Sをただ一つの電子eが移動するとき...」とでも言えそうな仮説に思えてなりませんでした。 僕は、作曲というものが、それだけで独立した一つの行為ではなく、表現手段の一部に過ぎないと感じられるのです。 ですから、そこには発見と伝達が必要です。 つまり、「作曲ができる人」という人種があるとも思えないし、作曲能力というものが独立的に存在するとは思えないのです。 もう少し分かりやすく言えば、僕が音楽を続けられるのは、まだ孤独感が極限に達していないからだと思います。 こんなエッセーを書いているのも、もしかしたら誰にも読んでもらえないのかも知れないけれど、インターネットというメディアを介しているのだから、もしかしたら誰かの目に留まるかも知れないという可能性を感じているからです。
 自分は「作曲できる人」である。 自分は「歌が歌える人」である。 自分は「表現する人」である。 そういった代名詞は、不安を決着させ、安堵という錯覚に人を遊ばせます。 「サイエンティスト」(科学者)という言葉があります。 これは、そう古い言葉ではないらしい。 定かではありませんが、確か中世以降の言葉と聞いた記憶があります。 元は、「アマチュア」などと呼ばれていたらしい。 直訳すれば「道楽者」、「好き者」といったところでしょうか。 それが、公の委託を受けて道楽をするようになったころから「科学者」になった。 科学者というと、何となく経済に疎い学者馬鹿、世俗を離れた世捨て人のようなものを連想します。 しかし、この科学者同士が出会ったとき、挨拶代わりに交わされるお決まりの文句があるのだそうです。 「予算付いた?」... つまり、彼等が研究を続けるには、これが不可欠なわけです。 「もうかりまっか」といったところでしょうか。 勢い、流行ものの研究者が増える。 原子力発電が推奨されれば原子力発電、エコロジーが注目されればエコロジーに走る。 中でも長期を要する難解な流行もの、悪く言えば実現の見通しは立て難いが大いに宣伝されたような分野には、予算が安定的に供給されますから研究者が集まります。 流石に欧米ではもう匙を投げてしまいましたが、核融合なんかが良い例です。 これにはもう気が遠くなるほどの予算が費やされてきましたが、他の実用的な代換エネルギーの研究には思いのほか予算が付けられてきませんでした。 数千分の一の規模と推測します。 すると、科学者の多くは核融合関連に走らざるを得なくなる。 彼等は、予算が付きそうな研究を申請しなくてはならないからです。 予算が付くことを、科学者仲間のスラングで「当たる」と言うそうです。 「当て」なくては話にならない。 自分が本当にしたい研究、気が付いている重大な問題であっても、例えば農薬中毒死の研究などは製薬会社も厚生省も金を出しにくい内容ですから、人気の研究をこなしながら余剰金で細々と続けざるを得ない。 ことほど左様に、「私は科学者です」ということが即座に我々の連想する求道者を意味するわけではありません。
 研究者の中には、このような中央集権的科学から民主主義的科学に変革すべきだと指摘する人もいます。 例えば、農薬中毒死についてもっと研究すべきだという世論に応じて予算が発生するようなシステムです。 科学の民主化、なるほどそれは必要なことだと思います。 ただ、それだけでは大穴が空くことになるのではないかと僕は考えています。 大衆主導型というのは、一見理想的に見えますが、実際には世論を発生させるシステムというものが主導権を握る傾向があり、それが経済至上的に運営されているのが現状だからです。 例えばテレビです。 視聴率=経済的利益ですが、これが肝心なわけです。 NHKのような体制にも問題があると思いますが、民放番組の内容には目を覆うものがありませんか。 彼等に世論の代弁を委ねているのが現状ですし、逆に世論がコントロールされている向きもあります。 週刊誌だってそうです。 売るためには手段を選びませんし、売ることそれ自体が目的ですよね。 仕方のないことだし、責めるべきことでもない。 もっとも、購入するかしないかという行動によって、彼等に投票することは可能かも知れません。 けれど少なくとも昨今のような世論システムの中で、貴重な発見をした科学者が必ずしも受け入れられることにはならないと懸念されます。 科学者は、元はアマチュアだった。 言い換えればボランティア(義勇軍)だったと考えれば、本当に研究すべきものを発見する最初の判断機構は個人であり、それを支援するには真の民主主義とでもいうべき風土が必要なのではないでしょうか。 それには、資本主義と民主主義が等価ではないことを認識すべきです。
 社会システムと表現者、即ち発見し伝達する人との関係は、良きにつけ悪しきにつけ、お互いに影響しながら歴史を重ねてきました。 今は亡き民族音楽研究家の小泉文夫先生によれば、音楽の形態や内容は、その地域に関わらず、宮廷音楽家の誕生と共に同様な変化を生じてきたといいます。 例えば、プリミティブな音楽には、プレイヤーの階層的関係が無く、音楽とは心を合わせるものだという傾向が顕著で、そこからくる自由なリズムや躍動感を伴っているそうです。 ところが宮廷音楽家、即ちプロフェッショナルの誕生と共に、或る面では洗練された技法が生まれるのですが、その本来的なものを失う傾向があるのだそうです。 そして、この経済至上主義的社会の中にあって、流行音楽は皆さんご承知の様相を呈しています。
 僕は、もしかしたら、人類というものはこのまま進んでいくのかも知れないという悲観を抱くことがあります。 音楽家や芸術家と称される経済活動家達の時代が長く続くことになるのかもしれないと考えるのです。 ところが、極稀にですが、素晴らしい活動を続けている方に出会うことがあります。 ですから、これから世の中がどう転がっていくのか、本当のところは見当が付きません。 少なくとも言えることは、自分くらいは単なる経済活動家で終わりたくないということ。 表現する人でありたいということです。
 僕が糊口を稼いでいるのは、通信機器の設計開発です。 今開発している技術の一部は、例えばテレマーケッティングというサービスに応用できます。 テレマーケティングには、「着信テレマ」と称されるものと「発信テレマ」と称されるものがあります。 前者はなるほど便利なもので、コールセンターだけでなくいろいろなサイトで利用されています。 しかし後者は、これはとても腹立たしい機能で、手当たり次第に電話をかけては勧誘、斡旋、商談をやるという類のものです。 先日もこの手の電話があったので、「うちのアドレスをどこから入手したのか」と問いつめましたが、何やら体の悪そうな対応でした。 こんなもの法律で禁止してもらいたいくらいです。 僕個人としては、この手の機能についてはできる限り消極的な姿勢をとっています。 ただ、正面切って要求仕様を否定するということが、一担当の分際でどこまで可能か。 確かに一度、盗聴系の機能が議論されたとき、「天下の○△□社がそんな機能を盛り込むのですか」と批判したことがあります。 幸い、○△□社の偉いさんが倫理観の強い方だったので、話を収束させることができました。 けれど、肝は縮みましたよ。 食えなくなるのは怖いですからね。 経済活動によっては、知らん顔を通したくなるようなことも、そりゃありますよね。 そう言う意味で、経済活動と自己表現のようなことがうまく両立できている人は、果報者でなくて何でしょう。
 だから僕のような人間は、弾き語り何ぞをやったりするわけで、これは趣味だの余暇というよりは、やらざるを得なくてやっているようなものです。 周りの人にはなかなか理解してもらえませんが、そういうことです。 こういった自己表現手段がなくなるというのも恐怖ですが、手段ではなく、表現できなくなることの方が余程恐ろしいことです。 最も不安を感じるのは、声が出なくなったらどうしようとか指が動かなくなったらどうしようということではありません。 発見する目を持ち続けられるかということです。
 発見する力について、よく「感性」という言葉で片付けてしまう人がいます。 感性は、圧倒的に幼児が持ち合わせています。 彼等にとって感性のあるなしは死活問題ですから、例えば人の表情からその内面を読みとったり、日常的な事象から新しい発想を導き出したりする能力に長けています。 もっといえば、言葉を持ち合わせない犬猫も、思いのほか感性に長けた連中です。 具現化する能力だって持ち合わせています。 ある知り合いの女性が、亡くなった恋人のことを考えて縁側でしゃがみ込んでいたら、飼い犬がずっとその表情をのぞき込んでいたそうです。 思わず涙が溢れたとき、その犬がさっと側に来て、ほっぺたの涙を舐めてくれたと聞きました。 彼等の感性は、言葉が伝わらない分、人間に勝るとも劣らぬほど発達しているのかも知れません。 そして確かに、感性というものは、発見する能力の中で重要な役割を果たしているに違いないのですが、しかし全てではないということにも気が付くべきです。
 自己表現ということは、感性の世界だけの話ではありません。 逆に感性だけでものを認識し判断しようというのは、片手落ちのように思えて成りません。 よく、「この歌はいいね、歌詞の内容は知らないけど」って人がいます。 戦後欧米の音楽に馴らされてきた我々には、えてしてこの傾向があります。 また、「プレイヤーのバックグラウンドなんて関係ないよ、良い音楽は良い、悪い音楽は悪い」などと言って満足できる人もいます。 いわゆる感性至上主義的な音楽観です。 犬や猫に音楽を解する能力があれば、こんな感じかもしれませんね。 しかし、表現としての音楽は、少なくともその間尺だけで受け止めることはできないでしょう。 必ずしも今「音楽」と称されているものがここで言うところの「表現」ではないでしょうから、そういった音楽への対し方が合っているとか間違っているというつもりはありません。 ただ、そのようなものを「音楽」と呼んでいることの陳腐さ、惨めさといったものには、一人でも多くの人が気付いて欲しいと思う一方、世の中の雰囲気だけで判断すればやっぱり無理かなという悲観がなきにしもあらずです。
 僕だけではないだろうと思うのですが、急速に失われていく「表現の場」というものが、今日の社会を憂うべき大きな問題の一つではないでしょうか。 芸術だの音楽だのと言うまでもありません、駅で隣り合わせた人が何者なのか、アパートの下階の住人が何を考えているのか、顔の見えない社会です。 僕ぐらいの年代の人間なら、まだどうにか幼児体験的に、顔のある社会を覚えています。 満員電車や繁華街の雑踏を異常な現象として見ることができます。 しかし、最近生を受けた連中にとって、それらは初めからある通常の風景であり、バスの中で化粧をしようと見ず知らずの人に多少の無礼をはたらこうと、それが何か間違ったことだとは思えないはずです。 今我々は、携帯電話の電磁波が隣人の心臓のペースメイカーを誤作動させるほど群れて暮らしてはいますが、お互いの顔を知らないのです。 つい最近まで親しかった友人が音信不通になると、なんともその人が雑踏に飲み込まれてしまったような寂しさを感じます。 友人の顔さえ、無表情にフェイドアウトしてしまうのです。 これを、あるべき姿ではないと考えたい。 表現することを諦めたとき、人は何処に向かうのでしょうか。 そんなことを感じています。 おっと、きょうはずいぶんと取り留めのない話になってしまいました。

--- 12.Feb.1998 Naoki


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