リフレインと音楽
十数年ほど前、小泉文夫(1927〜1983)、中村とうよう両氏の録音・編集による「中央アフリカの歌と踊り」というLPレコードにひどく感動したことがあります。
それをきっかけに、同じシリーズの東アフリカ、イラン・イラク、インド、ビルマ、台湾等々のLPを買いあさったものでした。
フィールドワークによる現地録音のレコードで、プロ・アマ問わず、様々な人々の生の音楽が記録されています。
どのように感動したか、てなことは、これはもう聞いて頂くしかないわけでして、兎に角ひどく感動しました。
最近では、細野晴臣氏なんかが、もそっとロマンチックな感じに再編集してCDにされているようです。
(何故か小泉文夫氏等の名前が消えてしまっているのが全くもって腑に落ちませんが)
殊にアフリカの音楽には、コール&レスポンス、非権力的な協調構造、自然で多様な音階など面白い要素がいっぱいあります。
そして只々驚嘆するのは、そのビート、そのノリです。
ポリリトミック(複合リズム)の妙というのはもちろんですが、何よりもその力強さです。
カバサだかシェイカーだか知りませんが、シャッカラシャッカラ延々と鳴らしている曲なんかがあって、このオッサンは何を考えてシャッカラシャッカラやり続けてるんだろうなんて考えちゃったりします。
やっとこさフェードアウトした後で注釈を見ると「彼らはこれを一晩中続けるのだ」なんて書いてあったりします。
この持続力はいったいどこからくるのだ!
そのようにアフリカ音楽の基盤にはリフレイン(繰り返し)があります。
まるで、心拍、呼吸、歩行、寝起き、収穫、生き死に、といった脈々とした繰り返しが彼らの音楽を形作っているかのようです。
そして、当然のことかもしれませんが、それらのリフレインは延々と同じことを繰り返しているようでいて、実は徐々に変化しています。
よくよく聴けば、砂浜に打ち寄せる波のように同じものは一つとして無く、尚かつ海岸の一日や季節のように大きなスコープの変化を伴っています。
その大きな変化というものは、必ずしも計画されたものではなく、何かに導かれるまま引き起こされていくように感じられます。
自然界の「1/fゆらぎ」についてご案内の方は、ここらでハッとお気付きになるかもしれません。
波や風や宇宙や素粒子は、短い周期で細かく、大きな周期で大胆にゆらいでいます。
以前、ベランという音楽家と即興を楽しんでいたことがあります。
その日は、僕がギターを弾き、彼が歌いました。
但し、歌詞は「ア・エ・イ・オ・ウ」の繰り返しでなくてはならないという条件を課していました。
延々と演奏を続け、約2時間経過して気が付いたことは、いつのまにか歌詞が「ア・イ・ウ・エ・オ」にすり替わっているということでした。
このとき、我々はイタク感動したものです。
1970年代後半には、スティーブ・ライヒという現代音楽家が、徐々に変化するリフレインに着目した前衛的な音楽を発表していました。
「フェイズ・シフト」と命名されたその手法は、単純な1拍子のリフレインから、複数のリフレインが綴れ折りのように絡み合ったものまで様々でしたが、いずれの場合もそれらのリフレインは微妙な遷移を伴っていました。
1980年代に入って発表された新生キング・クリムゾンの「ディシプリン」を聞いたとき、真っ先に連想したのはライヒのフェイズ・シフトです。
その不思議な向心力を持つ音楽は、それまで聞いて来たどの「プログレッシブ・ロック」よりも衝撃的に感じられたものです。
音楽は、このように無意識にせよ意識的にせよ、「変化するリフレイン」と深く関わってきました。
それに慣れているせいか、ディスコ(もハウスもクラブもわしゃわからんのですが)なんかで掛かるようなドンカマ(リズムマシン)のベードラ(大太鼓)4発というのは、ひっじょーに苦手です。
更にウワモノ(歌とかメロディー楽器とか)まで機械的だったりすると逃げ出したくなります。
ああいうビートで踊り明かす心理というのは、完全にコンピュータ制御されている電動パチンコのダイヤルを1日中握って一喜一憂しているようなものでしょう。
様々な音楽があっていいと思いますが、では何が「音楽」なのでしょう。
「音を楽しむ」のが音楽?
僕は、メシアンやクセナキスの作品の全てが「楽しい曲」とは思いませんし、高田渡の「鉱夫の祈り」や三輪明弘さんの「ヨイトマケ節」が「楽しい歌」とも思いません。
音楽とは何かを考える上で、前述の小泉文夫氏の研究は大変興味深いものの一つです。
「小泉文夫フィールドワーク‖人はなぜ歌をうたうか」(ISBN4-8092-4309-5)は、是非一読されることをお勧めしたい本です。
--- 19.Jan.1997 Naoki