リング・マイ・ハート

 仕事で、ビジネスホンや交換機といった「通信機器」を作っています。 地味な仕事で、けっこう面倒臭いんですねこれが。 誰かが喜んで使ってくれればいいが...とでも考えなきゃやってられません。 自分が作っている機械よりも、それを通して交わされる会話や繰り広げられるドラマの方が興味深いですね。
 最近では、FAXや携帯電話などの電話機はもとより、コンピュータの世界もこのインターネットのように「通信」が未来へのキーワードとなっています。 経済学者のアルビン・トフラー氏が名著「第三の波」の中でデジタル化と共にこの通信の持つ革命性を予言していたことは今更ここで紹介するまでもありませんね。 そも通信とはナンゾや。 たぶん明治語じゃないかと思いますが、いいですね「通じて信ずる」んですから。 ま、片仮名で言えば、なんらかの媒体を介したコミュニケーションの手段ということになるのでしょう。 確かに、通信はコミュニケーションをとるための一つの手段です。 そして、見方を変えれば、通信はコミュニケーションのある種のモデルだということもできます。

 電話機やパソコンなどを使って通信を行うには、「通信プロトコル」というものが必要になります。 いってみれば、話し合いをするためのお約束のようなものです。 例えば話し合いを始めるとき、何語を使うか、通訳は必要かといった前提が必要ですよね。 それから、先ず挨拶をして、相手が会釈を返したら自分が誰であるかを名乗って...といったマナーや仕来りも必要でしょう。 通信機器達のそういったお約束が「通信プロトコル」なのです。
 「通信プロトコル」には様々なものがありますが、原理的にはどれもよく似ています。 鳴かず飛ばずだったところがパソコン通信のお陰でいまや引っ張り蛸のISDNだろうと、 お客さんに操作手順まで覚えることを強要したうえ何の断りもなく勝手に故障したくせに「中止」といってハバカラない銀行のキャッシュディスペンサーだろうと、 いつも邪魔なのに肝心なときに限って何処かに紛れてしまい探し当てたときには劇的なサヨナラホームランが出た後だったりするテレビのリモコンだろうと、それら機械達の「コミュニケーションをとりたい」という願いは同じですから、どうしても似かよったものになるのでしょう。

 どの通信プロトコルも、一次元的なコミュニケーションのモデルとしての特性を備えていると言えます。 「一次元的」というお断りを付けたのは、コミュニケーションが時間軸に沿って逐次的に進行するからです。 人間達や、動物達や、おそらく植物達も、この「一次元的コミュニケーションモデル」を経験に基づいて、或いは生来暗黙の内に各々心得ていますね。 地球上の生命は、皆コミュニケーションの手段を持っているからです。
 しかし、生命のコミュニケーションは、通信機のような単純なものには留まりませんよね。 人間には、機械にはできないコミュニケーションの広がりがあります。 最も分かりやすい例でいえば、電話は双方向にかけることができません。 もし、お互いが同時に発信操作を行えば、受話器からはビジー音が聞こえるはずです。 通信プロトコルの中には、同時に起きた要求を競合させて勝ち残りでどれかを活かすという方式がありますが、これが双方向発信の問題を解決できる妙案であるかというと、残念ながらそうではありません。 この問題の解決には、厳密な同時性・偶然性への適応が要求されるからです。 すなわち、競合勝ち残りの方式には、双方が決意したことを瞬間的もしくは事前に認識する能力がないため、とりあえず喧嘩によって決定したか或いは予め固定的に運命付けられている勝者を選んでその一方的な要求が通るようにするということしかできません。
 この、双方向発信の問題は、我々人間のコミュニケーションの中ではしばしばあることです。 例えば、モーツァルトの曲が流れている喫茶店か何かを想像して下さい。 「いつも躊躇っていたけど、今日こそこの熱い想いを打ち明けよう」と密かに決意している男性と、「昨日はひどいことを言ったけど本意じゃなかった、ちゃんと謝ろう」などと考えている女性が向かい合って座っていたとしましょう。 あなたも経験がおありかと思いますが、そういうときにお互いが同時に話を切り出そうとすることってありますよね。 だからといって、この若き二人のコミュニケーションが破綻したりはしないでしょう。 若き二人は、この偶然の出来事に瞬時に適応して、なんらかの機転と態度により、めでたく心を通い合わせることができるはずです。 機械のように、ビジー音や勝ち残り方式によって調停する必要はありません。 人間達の、強いては生命のコミュニケーションには、この同時性・偶然性を包含する能力が用意されています。

 この他、アイコンタクトだの以心伝心だのテレパシーだのと、人間のコミュニケーションには機械では真似できない要素が多々あります。 中でもコミュニケーションと同時性・偶然性の問題は、例えば音楽を志す方には興味深い内容でしょう。 打ち込みの音楽や形式的なポップスなどを楽しめても、何か物足りなく感じている人は、音楽を自分のコミュニケーション媒体の一つに採用しているからに違いありません。 音が綺麗でも、踊りやすくても、かっこよくても、物足りなく感じる音楽というのはそう珍しくありませんよね。
 偶然性の音楽といってすぐに思い当たるのが、フリージャズでしょうか。 僕は、フリージャズにはあまり明るくないので何とも言えませんが、最近は少々下火になってしまいましたね。 現代音楽の世界では、音楽の中で偶然を制御しようと試みたジョン・ケージという巨匠がいました。 彼が亡くなった後も、若干のレコードやVTRを鑑賞することは可能ですが、それが彼の「作品」ということにはなりません。 何故なら、彼は「レコードは音楽ではない」と主張して憚らない人だったからです。 彼は、時間と偶然の共有の中から、音楽の本質を浮き彫りにした人だったのです。 有名な「4分33秒」という曲は、ステージにでんと置かれたピアノがあり、ピアニストが登場して椅子に座り、4分33秒経過したと感じたら帰ってしまう...というものでした。


John Cage
(1912-1992)

--- 14.Dec.1996 Naoki
追記改訂 --- 5.Jan.1999 Naoki
一部削除 --- 22.Sep.1999 Naoki
改版 --- 16.Dec.1999 Naoki



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