自意識について
子供の頃から僕は、よく「自意識過剰」と言われてきました。
そりゃあ、自分を意識せざるを得ないじゃないですか。
やっぱり気になりますよ。
ちゃんと読んだワケじゃないですが、埴谷雄高氏の小説「死霊」の中では、自分という者が不可解で不快なものとして扱われているようです。
確かに不可解だし、いつもついて回られるというのは不快なもんです。
だって、僕はそいつの顔も直に見たことがないし正体すら分からないのに、トイレの中にまでついて来るんだから、嫌なヤツですよ。
プライバシーを侵害しないで欲しいね。
あなたは、ビデオに撮られた自分を見て、気持ち悪く思ったことないですか?
「あの誕生パーティーの時、こんなヤツいたっけ?」とか思いません?
で、大抵の場合、そいつの声って気持ち悪いんですよね。
「何を言ってるんだ、そんなこと知ってるよ」ってことでも、得意になって話をしてたりします。
どうも身近に「自分」というヤツがいるらしい。
得体の知れぬ一つの生命体が...
でも、人間って、バイキンの集まりなんですってよ。
細胞の一つ一つが単細胞生物なんだって。
しかもその細胞ですら、本を正せば原始生物の集合体というか合体結果みたいなものなんだそうです。
じゃ、自分ってなんなんでしょう。
脳でしょうか。
脳だって脳細胞の集合体だから、じゃあその真ん中に観音様みたいなのが埋めてあるのでしょうか。
それが自分の「意識」なのでしょうか。
意識というのは、意志決定の場である、あるいはその集合体であると見ることができます。
いったい、意志はどうやって決定されるのでしょう。
そうだ、脳細胞のことで聞きかじった面白い話があるので紹介します。
脳細胞って、何百億もあって、各々がどういう化学反応で「通信」するかは大体わかっているのだそうです。
化学反応による情報の伝達というのは、お好み焼きの鉄板を触ってしまったときの反射運動やその後「あちぃ!」を認識するまでの時間を考えれば、そう速いものではないんですよね。
鉄板から脳までの一本道にしてその有様なのですから、何百億ものシナプスというノード(中継点)を持つ脳の意志決定機構はさぞやのろまであろうと推測されます。
だから未だに自分の生き方についても決めかねているのか...
ところが、どうもそうではないらしい。
どうも、脳が意志決定を行うとき、何百億もある脳細胞の多くが、一斉に励起するらしいのです。
これは、化学反応の連鎖という通信方式では説明のつかないことです。
難しい話はとんと分かりませんが、一部の前衛的な科学者達は、この現象を説明するのに量子論を持ち出しているようです。
神経伝達物質は、その分子の中に自由な電子を一つ抱え込んでいて、その電子が分子の「上側」にいるか「下側」にいるかといったことで、スイッチのON・OFFのような役割を果たしているのだそうです。
しかし、「電子などの量子は、粒子としての性質に波としての性質を併せ持っており、同時に異なる場所に存在することができる」ということが分かってきています。
神経伝達物質が抱いている電子は、ニュートラルな状態ではその「上側」と「下側」の両方に存在しているが、意志決定の瞬間、それがどちらか一方にのみ姿を現すというのです。
電子の位置は、量子的に揺らいでおり、一様ではありません。
無数とも言える神経伝達路上で意志決定が殆ど同時に一斉に行われることは、この電子の量子的「ゆらぎ」の共鳴現象として説明できるのではないかと考えられています。
「宇宙は無限のエネルギーに満ちた『無』の量子論的『ゆらぎ』からトンネル効果によって突如誕生した」というのが定説になってきているようですが、それこそ「神の意志」と呼ぶべきものかも知れませんね。
いずれにせよ、人間の意識というものも大いなる宇宙誕生のメカニズムと深い関わりがあると言えるのではないでしょうか。
少なくとも、人間の意識の材料となるものは、宇宙の其処此処に遍く存在しているということです。
なんだか、自分が大きくなったような小さくなったような気分になりますね。
しかし、それとは逆に「自分」という言葉の響きは、ひどく孤立した、閉ざされたニュアンスを持っています。
ポール・サイモンの "Something So Right" という歌の中に自分を万里の長城のような壁で囲ってしまっている悲観的な男が出てきますが、僕なんかそいつによく似てますよ。
宇宙に遍く存在しているはずの「意識」が、自分の頭蓋骨を境に分断されているわけです。
ま、量子力学がカルシュームで分断されるというのはおかしな話ですが...
とりあえず、これが自意識過剰のメカニズムってとこかな?
ただ、そういった自意識過剰な人間にも、自意識を捨てている時間というものはあります。
そう、何かに夢中になっているときです。
心から遊んでいるとき、勉強に熱中しているとき、スポーツをしているとき、あまりにも美しいものを見たときなどもそうです。
いいコンサートにいくと我を忘れてその世界に入っちゃったりもしますよね。
演奏するときも、我を忘れて集中できたときは結果的にうまくいってたりします。
我を忘れるとは、熱くなったり舞い上がったりすることではなく、集中することです。
演奏者に自意識が介入してくると、聴いている者はそれこそ瞬時にそれを感じ取ることができて、醒めちゃったりしますよね。
自分という頭蓋骨を破壊してこそ、音楽が得られるわけです。
フリージャズドラマーのミルフォード・グレイブスという人が、「私は何も創造などしていない、ただ宇宙から来るエネルギー線を集めて通過させているだけだ」というようなイタコのようなことを言っていましたが、
彼に限らず、音楽家の中には音楽が宇宙との通信であることを示唆する人は少なくないようです。
もちろん、宇宙とはあなたのすぐ隣にいる人をも意味します。
--- 16-20.Dec.1996 Naoki