夢の修正
「レッドツェッペリンBBCセッションズ」というCDが発売されました。
僕は未だ聞いていません。
聞いていませんが、想像はできる。
それこそ中学だか高校の頃、BBCのラジオ番組「イン・コンサート」のライブ収録が日本のFM放送で流れたことがあり、運良くそれをカセットに録音したことがあるのです。
今でも持っていますよ、20年近く聞いてはいませんがね。
いずれにせよ、そこから想像することができます。
僕が「バンド」と形容してきたのは、ああいった連中のことです。
こんなことを書くと、ロック中年の懐古趣味の話と思われるかも知れません。
確かに若い衆から、「流行を知らな過ぎる」とか「聞かず嫌いだ」とか「偏っている」などと評されることがあります。
「音楽観が昔のまま止まっているのだ」と言われたこともあります。
ですから、多少カドの立つ表現になるかもしれませんが、正直に書いてしまいましょう。
レッドツェッペリンやクリームなどのバンドは、なるほど現在「ハードロック」とか「ヘビーメタル」と称されている音楽の素材として利用されてはいるかも知れませんが、それらの原型ではありません、別物です。
様々な「音楽」と称されるものと関わってきた結果、そう断言して良いという確信を持つに至っています。
何を言ってるのかわからんという方がいたとしたら、貴方は可哀想なくらい無知なだけです。
確かに僕は、ロックがポピュラーミュージックになった後の若い衆が聞いてきた音楽と、量を競い合ったらかなわないのかも知れません。
考えてもご覧なさい、「音楽」と称されるものが増えましたよ。
札幌冬季五輪の歌は1曲だったけれど、長野冬季五輪のテーマソングだかイメージソングだか知らないが何曲あると思います?
(二三聞かせてもらいましたが、『これがプロの音楽です』と評しておきましょうか)。
そういう側面を考えれば、彼等が僕に言うことは正しいのでしょう。
しかし、音楽とはそのようなアサハカなものではないのです。
彼等がもし本当の音楽ファンであったなら、もし僕程度でいいから様々な音楽と深く出会うことができたら、きっと現在の自分に赤面せざるを得ないでしょう。
僕はロック世代の人間ではありません。
彼等の後塵を拝する立場の人間です。
ですから、レッドツェッペリンなどは、どんぴしゃのバンドでありました。
運良く間に合ったわけです。
こういう書き方をすると、何故そのような限定的な言い方をと思われる方がいるかも知れませんね。
ですから、はっきりしておきましょう。
「ロック」はとっくに終わってるんです。
「印象派」だとか「シュールレアリズム」だとか「キュピズム」だとか、これらを技法の呼び名としか捉えることのできない方には、残念ながら理解することは無理です。
これをエッセイで説明するなんて到底無理でしょうから、結論だけ言えば、今は「ロック」という商標が残っているだけなのです。
馬車道の「アイスクリン」のようなものです。
もちろん、楽しみはいろいろあっていいわけですから、どうだっていいという方がおられても構いません。
ですが、僕のような、音楽を愛してしまった人間にとって、テレビやラジオで少々人気が出た輩に「ロックバンド」だの「ミュージシャン」だの、言うに事欠いて「アーティスト」なんて言葉を充てないでくれよという気分です。
これじゃ失語症になっちまうようってな感じです。
そういう意味で、僕は昨今、音楽というものが邪魔でなりません。
偶然BGMのない喫茶店なんかに入ると、もうオアシスに迷い込んだような気のすることがあるほどです。
そういうことから連想して頂くしかありませんが、僕にとってのバンドとは、レッドツェッペリンやクリームのような、本来的でありながら独創的であり、意図的でありながら即興的であり、組織的でありながら個性的な集団による音楽発信源です。
ですから、歌謡曲の「バンド形式」のそれとは大凡無関係なものです。
その意味で、「プロ」と称する「バンドマン」の大多数は後者であり、よく「プロ」と聞いただけで盲目的に崇拝してしまう不幸な人々がいますが、むしろ彼等の経済的音楽行為の多くは取り上げるに値する類ですらありません。
今、本来「バンド」も持っているべき音楽的「場」は、可成りの割合でソリストにしか求められないように思います。
一部の例外は別として、形だけバンド、その実は張り子というものが目立つというか、主流ですね。
僕は、いつか自分も本来的でありながら独創的であり、意図的でありながら即興的であり、組織的でありながら個性的な集団を築きたいという願望を抱いて、人生の約半分を費やしてきました。
その間、何人もの素晴らしい人達とプレイすることができましたが、自分のイメージした関係を築き得るメンバーとして思い出せるのは、元スーパースランプの丸山雄一を初めとする数名にしか過ぎず、彼にしたところで衣食住その他様々な生活の柵を考えればバンド活動など夢、つまり、もはやこれまでかという状態です。
バンド、それは自分にとって特別の意味を携えた集団であり、音楽表現の一つの理想型でもありました。
人も居を構えるようになってくると、いろんな意味でバラバラになってきます。
皆、動き辛くなっています。
しかし、自分の生を投げ出す気がないのなら、壊死した腕を切り落としてでも前進しなくてはなりません。
夢には、修正も必要です。
--- 04.Feb.1998 Naoki