若き使者達
昨年の秋、小学校2年生の息子が、「学校でとても綺麗な歌を聞いた」と話してくれました。
担任の先生が音楽の時間にお気に入りのCDをかけてくれた、それがとても美しくて、彼だけではなくクラスの何人もの子供達が「感動した」のだそうです。
誰のどんな歌だろうとCD屋に連れていくや否や、彼が目ざとく「これこれ!」と見つけてきたのは、コナー・バロウズというイギリス人の少年が歌っている「レクイエム」とかいうアルバムでした。
バロウズ君は14歳やそこらで、声変わり前のいわゆるボーイソプラノ。
ボーイソプラノといえば、昔音楽の時間にウィーン少年合唱団の「鱒」だとか「野薔薇」だとかよく聞かされたものですが、そういう透き通った声で歌います。
聞いて驚いたのは、いわゆる「天使の歌声」のような美しさもさることながら、その集中度と完成度の高さです。
声色や技巧といったものではなく、音楽そのものが無条件に直接飛び込んで来るのです。
世の中の全ての汚れを洗い流し、悲しみを溶かし、聞く者を懐に抱くような鎮魂歌。
普段アニメの主題歌ばかりを聞き、ポケモン数え歌を口ずさんでいるような小学生の多くが初めて聞かされたその歌声に感動したというのは、正に音楽の本質がそこにあったからではないでしょうか。
そのCDを初めて聞いたとき、僕は「やっぱり地球上には音楽というものがあるのだなぁ」というような感慨を持ったほどです。
世の中にはまだまだ素晴らしい音楽があるものだと、再びCD屋の中を散策しているとき、ギターに寄り添っている可愛らしい女の子のCDジャケットが目に入りました。
ムードミュージックか何かだろうと覗いてみると、どうやらクラシックギターらしい。
そういえば、クラシックギターなんて何百年も聞いてないな、カバーモデルの女の子も可愛いし、1枚買っておこうかと気軽に手に入れたんですが、買ってみてびっくり、奏者はその女の子でした。
村治佳織という若いお嬢さんの「パストラル」とかいうアルバムです。
「楽譜通りに弾ければ巨匠」とさえ皮肉る人のいたクラシックギター界にあって、高々18歳やそこらの小柄な女の子がどこまで演奏できるのか、冷やかし半分な気持ちで聞いてみて唖然。
これもまた、音が良いとか巧いとかいう以前に、音楽としての密度、奥行き、そういったものが無条件に飛び出してきました。
僕はいったい何年ギターを手にしてきたのか、いや確かに3歳から英才教育を受けてきた人間と自分との才能の差は歴然としているにせよ、僕は彼女の倍以上人生を積んできたのではないのか。
ならば、彼女の演奏が持っている深みや機微はいったい何なのか。
これはもう、唖然とするほか仕方のない出会いでした。
最近、ロックやポップスのようなものに幻滅している向きもあって、モダンジャズのレコードをよく聞いています。
ジョン・コルトレーンとかマッコイ・タイナーとか、そういった類ですね。
ジョー・パスの「バーチュオーゾ」というソロアルバムなぞを聞いていると、亀の甲より年の功、音楽は皺の数だけ深くなる、なぁんて思ったものです。
ところが、昨年のこのバロウズ君と村治さんの一件で、もう殴られたようなショックで、はっきり言って自分に音楽を表現するような資格があるのかとさえ思いました。
子供の純粋さだの、英才教育の成果だの、そういったものは関係ないのです。
正統な音楽というものがあるとすれば、いやあるのですが、彼等はそれを表現するという使命を負ってこの世に出現したのではないかという気がするほどです。
自分は何をしに生まれてきたのやら。
年が明けて、僕は敢えてもう一度弾き語りをやってみようと思いました。
もう一度自分のこの不完全さを心ゆくまで披露し、認識し、飲み込まなくてはならないという気がしたのです。
同時に、本当に自分が音楽的表現者として価値のない人間なのか、少なくとも自分が知っておく必要があると思ったのです。
でも、まだ練習を始められません。
まだ迷いがあるのかも知れませんね。
夢中になれた時代、そんなことは気にも留めなかったのですが、己を知ること、これは難しくて勇気のいることですからね。
自分は何をしに生まれてきたのか、この歳になって迷っているようじゃねぇ。
40歳が不惑でしたっけ。
ライブは39歳の前祝いということになりそうです。
--- 29.Jan.1998 Naoki