「サヨナラ」は、「スキヤキ」、「スシ」、「テンプラ」と並ぶ日本語の有名な単語の一つでしょう。
横浜の根岸に住んでいた頃、たまたま知り合いになった米軍人の息子は、他に「ヤッキーソバ」と「ニーコゥ」という言葉を知っていました。
どうも“Yackie(ヤッキー)”というような言葉があるらしく、大学の文化祭に連れていってやったら、“Yackie-SOBA ! Yackie-TORI !”と喜んでおりました。
“Neko(ニーコゥ)”は、猫のこと。
あの動物は、“Cat(キャット)”ではなく、まさしく“Neko(ニーコゥ)”だと、日本語の持つ発声的ニュアンスの妙に感じ入っていた様子でした。
そして、米国に帰るまでの一年余り、彼は僕の名前をずっと“Nauki(ナウキ)”と信じていたようです。
なんか、ブッシュマンになったような...
言葉というものは、先ず音ですよね。
話して覚えなくちゃなりません。
ニューヨークに行った同僚が、何度「マクドナルド」を尋ねても通じなくて困ったと言ってました。
どうも“Mc.Donalds(マクダネィルズ)”と発音するようですね。
それから、教科書で習うような英単語が会話で通じなかったこともあります。
溜まり場だった元町のロック喫茶に閉店まで居て、さてみんなで遊びに行こうとなったとき、(本来の意味で)ヤンキーのお姉ちゃん達に「灯りを消しておけよ」と言いたかったんですよ僕は。
多分“Put off the light.”とか何とか言えば良かったんでしょうが、“Put”だか“Turn”だか“Take”だか何だか、咄嗟に出なかったわけですよ僕は。
で、思わず“Extinguish.”と言っちゃった。
五月蠅いお姉ちゃん達が、一気にみんな黙ってしまいましたね、サーッとね。
“What ???”とアイリーン嬢。
確かデルタン(当時流行っていた大学入試のための丸暗記用参考書)に「消灯」と書いてあったはずなので、スイッチのところまで行って“Extinguish.”と繰り返すと、暫く間が空いてから「ワッワッワーッ!」と爆笑モードに入りましたね奴らは。
この言葉、単に文語臭いというだけでなく、「消滅させる」とか「絶滅させる」とかいうニュアンスの言葉で、よくは分かりませんが堪えきれないくらい滑稽だったようですよ、こればっかしは。
活字で覚えた外国語は、会話には使わん方が身のためですぞ。
で、何の話でしたっけ、そうそう、「サヨナラ」の件です。
昔そんなようなタイトルのハリウッド映画がヒットしたらしく、そのあたりから少なくとも米国においてこの言葉の知名度が上がったようです。
僕は国語学者ではないので、ここから先(前も大差ありませんが)は想像力逞しい世界になってしまいますが、多分「左様ならば此にて失礼いたします」といった挨拶が、「左様ならば」に略され、「左様なら」に縮み、「サヨナラ」になったんでしょう。
いずれ「サイナラ」から「サイナ」になって「アイナ」ってな言葉になるのかも知れませんね。
しかし、この「サ」という音は「サびしい」ニュアンスを持っていて、“Sad(サッド)”で“Sorrow(サロゥ)”な雰囲気がありますから、最後まで残るかも知れませんね。
音ってそういうとこありますよね。
「無い」の「ナ」行なんていうのは“Negative(ネガティブ)”な音で、“No(ノゥ)”とか“Never(ネヴァ)”とか“Nauki(ナウキ)”なイメージなわけです。
おそらく欧米人にとって、“Sayonara(サヨナラ)”は“Neko(ニーコゥ)”のように発声的ニュアンスの妙を持った言葉と映るのではないでしょうか。
別れの言葉は、外国ではどうなっておるのでしょう。
最も知られているのは“Good-by.(グッドバイ)”や“Bye-bye.(バイバイ)”でしょう。
この“Good”は“God(=神様)”のことで“Bye”は「側」を意味しますから、旅立つ者に対して「神様が側にいて下さいますように」、「神のご加護がありますように」というような意味のようです。
しかし、この「バイバイ」は、比較的珍しい例ではないかと思います。
別れの言葉の語源としての主流は、“See you.(スィーユー)”でしょう。
これは、“See you again.”の略、即ち中国語なら“再見(ツァイチェン)”、独語なら“Aufwiedersehen.(アオフヴィーダゼーン)”、仏語なら“Au revoir.(オール゛ヴォアー)”であり、日本語なら「またね」、「また会いましょう」という意味になります。
英語には“Solong.(=再会する日を待ちこがれることになるよ)”とか“Farewell.(=良き旅を)”といった餞の言葉もありますが、やはり“See you.(=またね)”的な別れの挨拶は王様ではないでしょうか。
例えば、仏語に永遠の別れを告げる“Adieu.(アデュー)”という言葉がありますが、これは滅多に使われないそうです。
例え一期一会で、多分もう二度と会うことはないだろうと思われるような場合でも、“Au revoir.”と告げるのが普通のようです。
ユダヤ人の強制収容所に送られる子供たちを描いたルイ・マル監督の映画は、邦題こそ「さよなら子供たち」ですが、原題は“Au revoir, les enfants”だそうです。
「再開したい」という気持ちの生み出す言葉が、別れの挨拶の主流になっているのではないでしょうか。
大凡人間というものは別れを肯定する傾向にはないようです。
別れは、いつも突然のように訪れます。
人は、一人で生きているようでいて、大切な人との関わりによって自分の生を確認しながら毎日を送っているのかも知れません。
突然の別れに、人は「またね」としか言いようがないのです。
別離は、部分的な死に値する事件で、或る機軸における時間の終焉を意味し、自己否定的な暗示を携えています。
しかし、「またね」ではなく「さようなら」を口にするとき、意識的にせよ無意識的にせよ、そこには一種の覚悟にも似た決意を感じることができます。
現実が左様ならば、私はそれを受け入れ、貴方を送り出すことへの覚悟を致しました。
左様であるならば、それは致し方ありません。
左様ならば、どうぞお元気で。
旧友が、“www.sayonara.ne.jp”というインターネット・プロバイダを開設します。
これを祝してBBSに詠んだ詩を、その旧友も気に入ってくれたようなので、ここに再度記憶します。