独唱ノススメ
独りで音楽をやるようになって、今まで忘れていたいろんなことが甦ってきたように思います。
バンド形態というのは、メンバーとの意識合わせ、音合わせ、更にはスケジュール合わせなど、何かと「合わせ」が必要で、もちろん合えば面白いんですが、そっちの方に気を取られていると音楽そのものに心が行き渡らないことがなくもない。
その点、弾き語りのような形態は、音楽に集中して、尚かつ自由にやれるという良さがあります。
もちろん、限られた音、限られた発想、限られた表現力など、何かと「限られ」ちゃうんですがね。
そうすると、甦ってきますよ、いろんなものが。
人間には、限られちゃうと甦っちゃうってとこがあるかもしれませんね。
何かが足りないから工夫をする、練習をする、自信もつく、楽しくもなる、そんなもんでしょう。
孤独感のようなものって、或る程度必要なのかも知れません。
いうまでもなく人間は根元的に孤独なわけですから、それを忘れてばかりはいられないでしょうしね。
愛情や快楽に満たされているときはそういうことをケロッと忘れていますが、その状態が手放しで幸福であるかというと薄氷の上を歩いているようなものでね、孤独を引き受けているからこそ感謝の念や愛情もまた甦るというか本物になっていくのではないでしょうかね。
とまあもっともらしいことを言ったところで、音楽の自然な姿は人と人の関係の中にあると思いますから、弾き語りなんてあまり健康的なスタイルではないのかも。
特にアフリカ音楽なんか聞くと、やっぱりそう思いますよ、この素晴らしい協調関係こそ音楽だって。
でも、あるんですね、彼等が弾き語りをすることだって。
行商の途中、路傍の木陰に腰を下ろして手荷物からンビラ(サンザ)を取り出し、独り言のように歌い始めるってな姿もある。
するとちょっと疑問も生じるわけです。
音楽というのは一種の通信手段で、音を出そうというのは何かを伝えようという行為ではないか、だとすればそのとき彼は何に向かって歌ってるのかって。
自分自信に?
僕は違う気がする。
きっと誰かに、遠い故郷の恋人にとか、今は亡き祖先にとか、擬人化された太陽にとか、あるいはもっと神格化された何かに向かって歌っているのかも知れません。
とにかく、彼が外側に働きかけているのは確かだと思えるんです。
この手のことって、弾き語りを始めるまで、どこかに忘れてきてたように思います。
やれメンバーと心を共にしてとか、もっとお客さんに向かってとか、そういう意識は音楽そのものではないわけです。
もっと本質的なものがある。
だから、大衆音楽とか、若者の音楽とか、子供向けの音楽とか、嘘だと思いますよ。
先日、息子の通う小学校にタンザニアの音楽団が来ました。
体育館で歌ったり踊ったり、「すごかった」そうです。
その後、彼は子供向け番組の歌を聞いても「これはあまり面白い音楽ではない」などと言うようになりました。
或る意味で不幸ですか?
いや、タンザニアの音楽がよほど面白かったのでしょう。
僕が「音楽嫌い」なのも、素晴らしい音楽に触れる機会が多かったからだと思います。
僕が音楽を続ける最大の動機は、そういった音楽に恩返しがしたいという妙な意識で、ずっと昔から持っています。
何なんでしょうね、それって。
少なくとも、そういう意識を持つに至った頃の自分を取り戻しつつあるのは確かです。
やってみるもんですよ、弾き語り。
--- 24.Jul.1997 Naoki