子供の頃奈良に住んでいたといっても、二月堂と三月堂の区別もつかないような阿呆でしたから、地理、歴史、仏教、建築といった類には未だにまったくもって不案内です。
それでも唐招提寺や秋篠寺は好きでした。
坊さんが面白いとか、お寺や近所の雰囲気がいいとか、ちょっとした思い出があるとか、まあ他愛のない理由ですがね。
幼い頃の思い出となれば東大寺の大仏殿だとか長谷寺の石段ということになりますが、思春期というか青春に至ってはこの二寺なんです。
でも興福寺の五重塔なんかは、もう通学路にシュッと建ってるわけですから、有り難くもなんともなかったですね。
ですから、修学旅行生なんかがゾロゾロとお寺を回っているのを見かけると、いとあわれなりと思いましたよ。
何が楽しくてカラスのような学ラン姿やヨレヨレの体操服(昨今のようにかっこいいスポーツウェアではない)姿をして、旗を持ったガイドさんの後を付いて回ってるのかってね。
ところがどっこい、関東に転校してみると、中学、高校とも修学旅行は「奈良・京都」でした。
しかも中学の時なんか、学生服のズボンに上着はジャージという、この上なく情けない格好で歩かされました。
「他の校の学生と一目で見分けられるように」との配慮だったそうですが、だったら他に何か手がありそうなもんじゃないかい。
そういった関係で、何だかんだと訳も分からず奈良の有名な神社仏閣は一通り行ったことがあるはずだったんですが、ただ一つここはまだだなというお寺がありました。
横浜に移住する直前ではなかったかと思いますが、観光用パンフレットか何かの写真を見てドキッとするような印象を持った五重塔のある室生寺です。
木立の間にひっそりと佇む五重塔の写真は、新緑だったか紅葉だったか雪景色だったかは全く覚えていないのに、その建物の美しさだけが心を掴んで離しませんでした。
「いつかは会いに行くぞ」、そう心に誓った記憶があります。
その室生寺に、とうとう今年行ってきました。
室生寺は、近鉄線の室生口大野駅から10km近く山に入ったところにあり、もちろん今ではバスがありますが、やはり行こうと決心しないと行けないような所にあります。
その分、幽玄な雰囲気もあり門前町も観光ズレしていないので、奈良ズレしている自分ですら何となくワクワクしてしまいました。
室生寺は、密教寺のメッカでもある高野山が女人禁制であったのに対し、女人の登山を許したので「女人高野」とも呼ばれています。
門前には室生川が流れ、それを渡している鮮やかな朱色の太鼓橋が女性的な雰囲気を湛えていました。
或る程度標高があるせいか、真夏の炎天下でも木陰には涼があり、蝉時雨の中にはヒグラシの声が混じっています。
川は美しく、青い宝石のように飛ぶカワセミを見ることができました。
石段を登り本堂へ、僕は何だか初恋の人に再会しに来たかのようなときめきを感じていました。
本堂の脇にまた石段があり、見上げればその上に五重塔がありました。
その姿は、20年以上昔に見た写真の印象と全く変わりませんでした。
おかしな話ですが、僕はなんだかこみ上げてくるようなものを感じました。
この五重塔は、野外に建つ五重塔の中では日本最小のもので、16.7メートルの高さしかないそうです。
しかし、小さいとは感じさせない均整と、興福寺や東寺のそれに負けない存在感があります。
色彩は柔らかく、白い壁と淡い朱の柱、檜皮葺の屋根には苔の緑があり、取り囲む木立と調和した優しい生気のようなものを持っています。
何なのでしょう。
僕のような、建築や仏閣に全く理解のない人間が、何故魅せられてしまうのでしょう。
また、不謹慎ながら敢えて彼女と呼ばせてもらいますが、彼女もまた初めて訪れたはずの僕を暖かく迎え、何か語りかけてくれているように感じました。
オヤジは若い頃の登山の帰りに、オフクロは女学生の頃に来たことがあると言っていました。
奈良の人間でも案外訪れることの少ない寺かも知れません。
僕は、彼女の周りを回り、見据え、眺め、今度はいつ来られるだろうと思いながらその場を後にしました。
室生寺の五重塔は国宝だそうですが、何とか一言で形容を試みるとすれば、貴重だとか綺麗だとかいうことより、「愛しい」という言葉が相応しいように思います。
石段を降りるまで、僕は幾度となく彼女を振り返りました。
1998年9月22日、台風7号の直撃で樹齢六百数十年の杉が根こそぎ倒れ、五重塔の屋根3分の1が損壊しました。
天辺にある相輪がねじ曲がっていることから杉の木がまともに倒れてきたものと考えられますが、昔の建築物がいかに頑丈かということでしょう、新聞の写真を見る限り五重塔本体は倒れていません。
それにしても痛々しい写真です。
やはり復元するには、すべて解体して再建築することになるのではないでしょうか。
とすれば、再び塔に会えるのは何年も先のことになるでしょうし、檜皮葺の屋根に苔がむしたあの風情を取り戻すには何十年もかかるでしょう。
結局、1997年のこのエッセーの初対面が、実は見納めということになってしまったのかも知れません。
悔しく思われます。