作曲と予知


 小学校2年のとき、自分の作った曲が音楽の先生に気に入られて音楽発表会の出し物になったことがあります。 我ながら天童ではないかと思ったもんです。 ところが、後になって分かったのですが、モーツァルトの作品にそれとそっくりなのがあるんです。 だから多分僕は作曲したのではなく、どこかで耳にしたメロディーをなんとなく覚えていたに過ぎないのではないかと思います。 作曲には結構こういうヘボが付き物で、既にあるものを言い換えたに過ぎない作品が、本意不本意に関わらず存在するようです。 広義に捉えれば、単に事実を並べ立てただけの曲というか、例えば典型的な校歌だとか、聞き手が好むものをリサーチして作った曲だとか、そういうものもこの類に入るのではないかと考えます。
 それとは逆に、作った曲が後になって現実性を帯びてくるという、いわば正夢現象のようなものがあります。 忌まわしい話ではありますが、パラシュートが開かないというような曲を書いた直後にスペースシャトルが落っこちましたし、始発電車がどうのこうのという曲を作って間もなく出先で車が故障して本当に始発を待って帰るハメになったこともあります。 人喰い獏に騙された〜!とかいう曲に至っては、もう目も当てられません。 空想で書いたはずの歌の内容が、後になって現実に反映されていくのです。
 自分と巨匠を比較するのは笑止千万かも知れませんが、有名なボブ・ディランの「風に吹かれて」にしてもそうです。 「あまりにも多くの命を失い過ぎたと分かるまでに、いったい何人の人間が死ねばいいのか」というこの曲は、ベトナム戦争の反戦運動の中で何回となく歌われましたから、当然反戦歌として作曲されたものと思われています。 しかし、この曲は、ベトナム戦争が始まる以前に書かれていました。 ディラン自身、音楽評論家との対談の中で、あの歌はもともとベトナム戦争とは無関係だったと話しています。
 だからといって、音楽に予知能力があると言いたいわけではありません。 音楽の種類にもよるかとは思いますが、僕の場合、曲が生まれるときには必ず辺りに何か雰囲気のようなものが漂っています。 無い知恵を絞って作曲するわけではなく、辺りにもう音楽が始まっている、それを逃すまいと捕まえて具体化する作業が作曲なのだろうと思います。 だとすれば、個人的な体験や人間関係から受ける雰囲気に留まらず、そのときの社会的雰囲気や、強いては世界的な雰囲気から音楽が生まれても不思議ではありません。 そこに介在している一種の普遍性のようなものによって、時間の後先はともかく、現実味を帯びている、あるいは現実に反映されているように見えるということに繋がるのかも知れません。
 作曲を商売にしている人はそんなこと言っていられないと思いますが、だから必要に応じて曲を書くということは、僕には無理です。 むしろ歩いてたり、風呂に入ってたり、寝床に潜り込んだり、意外と眠っているときに夢の中で音楽が始まってしまうケースもあります。 ギターを構えて無理に作ろうと思って作った曲は、根拠が希薄なせいか現実味も帯びませんし、第一いい曲にはなりません。
 僕は、作るにせよ聞くにせよ、正直な音楽としか付き合えない人間であろうと思います。 ですから、できることなら明るい歌、優しい歌、楽しい歌、幸せな歌、そういうものが集まってきてくれればいいなと思います。 そして現実にそれが反映されてくれれば... しかし現実ぁそう甘くはないやね。

参考文献: ビル・フラナガン著「ロックの創造者達」
--- 3.Jun.1997 Naoki


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