訣別癖
中学1年の時は、自他共に認めるクラス一番の人気者でした。
人を笑わすのが好きだったんですね。
奇抜な格好をして学校に来たり、礼をするときにロボットの真似をしたり、授業中にジョークを飛ばしたりといった類のことです。
どういうわけか何をやってもやたらとウケました。
みんな、次に僕が何をやるかを楽しみにしていたと思います。
しかし、中学2年の1学期を終えると転校することになってしまいました。
関西から関東という距離感、友達を失う不安、好きな女の子に会えなくなる寂しさ等々から、けっこう鬱いでいました。
引っ越し先のマンションの屋上から、間近に日石のコンビナート、根岸の森林公園、遠くに本牧埠頭、マリンタワーなどを臨みながら「奈良の方が良かった」と呟くと、今は亡き叔父が「人間はそんなことではあかん。いつも明日の方を向いてんとな。横浜もなかなかエエとこやないか。」と諭してくれたのを覚えています。
強い浜風に吹かれながら、大人から初めて子供扱いではない話をしてもらったような、何か新鮮な思いがしました。
それから休みの日を使って2,3回故郷に帰り、まだそのままだった実家に友達を集めて泊まり込みパーティーをやったり、好きだった女の子を呼び出したりしていました。
しかし、段々と分かってきたことは、友達は自分が考えているほど自分を必要とはしていないということ、そして女の子には新しい男の子ができるということです。
そりゃそうでしょう。
自分が過去に執着している間も、みんな各々の世界で生き、変化しているのですから。
だから、それはそれとして認めた上で遊びたきゃ遊べば良かったんでしょうが、そのとき僕が選んだ解決策は訣別でした。
そして、専ら歌を書いたりギターを弾いたりということにのめり込んでいきました。
僕の訣別癖はこのころから始まったのだろうと思います。
ですから、同窓会やOB会といった類のものには、殆ど出席したことがありません。
ここだけの話、出席しても楽しくないんですね。
近況報告をして、昔話をして、挙げ句カラオケにでも連れて行かれようものなら、頼むから解放してくれと叫びたくなってしまいます。
旧友が嫌いになってしまうのではないのです。
やっぱり好きなんですね。
好きであるほど歯痒さを感じるというか距離を感じるというか、いたたまれなくなるのです。
ですから、現在進行形でなくなってしまった友達とは遅かれ早かれ訣別してしまいます。
もちろんこれは僕の悪癖中の悪癖です。
旧友を大切にしないということは、直接的な関係を持たない人は大切にしないというのと同じで、自分の世界を狭め、自分を孤独に追いやり、到底幸せな人間関係を育むことなどできません。
また、「時は流れない、それは積み重なる」ってなCMの文句がありましたけれど、過去を否定してしまうということは自分自身をも否定してしまうことになり、常に満たされない気持ちでいることになります。
だから、死ぬまでにはこの悪癖を克服しなくてはならないと常々思います。
けれども身体が許さないというか、一定の距離を置いた関係はどうしても持続できない性のようなものがあります。
それは、愛されることへの自信のなさと、早く不安から逃れたいという衝動のようなものでしょう。
--- 4.Jun.1997 Naoki