犬の宇宙
以前このエッセイで、「蓋を開けるまで箱の中には何も存在しない」という、観測と実在の関係について少し触れたことがあります。
それが事実か否かを論じるつもりはありません。
その事実を論ずるために宗教や哲学や科学があるのでしょうから、「科学は事実か」なんてあまり楽しそうな命題ではありません。
ただ、ちょっと飛躍しますが、似たようなこととして、人間不信に陥ると在るべきものが無くなってしまうということはありませんか?
目で見えるもの、肌で感じるもの、そういったもの以外は在ると思えなくなってしまうということです。
人間は、ものの存在を言葉を通して認識します。
例えば、我々は薔薇という植物を知っていますよね。
帰宅してドアを開けるとテーブルの上に薔薇の花束が置いてあったとします。
それを見つけたとき、網膜には相応の赤い広がりが映っているだけだそうです。
その刺激が「薔薇」や「花束」という言葉を想起させれば、その大きさ、重さ、奥行き、柔らかさ、香り、更にはそれをプレゼントしてくれた人のことや自分が愛されているのだということ等々を一瞬に認識できるわけです。
もしそれだけでは言葉が連想されないというときは、近寄ったり、角度を変えてみたりして、「ああ、薔薇だ」と分かる。
しかし言葉を知らないとすれば、それが何かを認識するのにもっと骨が折れるでしょう。
恐る恐る手に取ってみたり、匂いを嗅いでみたり、赤ん坊だったら口に入れてみたりするでしょうね。
逆の言い方をすれば、自分の五感に直接刺激がないものを言葉を介さずに認識することは不可能だろうということです。
つい最近、「暗黒銀河団」とでもいうべき新種の天体が観測されましたけれど、我々が肉眼で空を眺めたところでそんなもの見えませんし(そもそもどんな望遠鏡を使っても見えない天体なのだ)何十億光年も離れた所にそんなものがあろうと痛くも痒くもありません。
なのに、新聞を読んでほほぅと思うのは、言葉を介して(自分なりに)認識するからです。
我々は「暗黒」だとか「銀河」だとかが大体何を意味するかを知っていますし、それにまつわる様々な情報(主に言葉による)を持ち合わせていますから、革命的な発見ではありますが、僕のような素人にもなんとなくやっぱり認識できるわけです。
そういう言葉を持ち合わせない、例えばイヌ君なんかに、銀河だとか宇宙だとか素粒子だとか、そもそもこの地球という天体について認識させることさえ無理だと思いますよ。
だから、犬の宇宙は、それはそれで素晴らしいものでしょうが、人間の宇宙よりも狭いのではないかということが想像されます。
更に人間は、ビッグバンだとか虚数時間だとかスーパーストリングだとか、言葉によって実在を想定することまで試みます。
そして、時代を経る毎に新たな世界観を獲得し、またその世界に働きかけてきました。
言葉が実在を導き出しているかのようでさえあります。
人間不信というのは、主にその言葉への不信であろうと思います。
言葉が信じられなくなると、実在をも信じられなくなります。
何処にいると言われても、いや本当はいないと思ってしまう。
好意があると言われても、そんなものがあるとは思えない。
自分の携えている過去さえ否定したくなり、未来が感じられなくなる。
一気に世界観まで変貌してしまったりするわけです。
ところが先日、そういった気分に一石を投じる歌に出会いました。
渋谷のアピアというライブハウスでピアノの弾き語りをされていた西岡まゆみという方の曲(すみません、タイトルがわかりません)です。
勝手に歌詞などを掲載してはいけないのかもしれません。
けど敢えて、冒頭の部分だけでも、正確ではありませんが覚えている範囲で紹介させてください。
Every time
星は あるんだよ
遠すぎて 小さすぎて 見えなくてもあるんだよ
Everywhere
種は あるんだよ
地面の下に あるんだよ
春には 芽を出すんだよ
もし芽が出なかったとしても あるんだよ
|
いい曲だし、いい演奏でしたよ。
日本語の特性を活かすシンプルなメロディーも美しく、本来はR&B歌手と思しき西岡さんの歌い方もとても素直で、久々に素晴らしい歌と出会ったという感じでした。
僕はこの歌を聞きながら、逆に言葉にならない感動を覚え、そして漠然と考えていました。
「信じること、それ自体がその人の宇宙なのかもしれない」と。
一方、言葉に対して悲観的というか、ある種アイロニックな歌というのもありますね。
ニール・ヤングの“Words”(アルバム“Harvest”)やキング・クリムゾンの“Elephant Talk”(アルバム“Discipline”)なんかそうじゃないですか?
どちらのミュージシャンも米国人というのは面白いですね。
--- 18.Jul.1997 Naoki
今日、西岡さんのライブに行くことができました。
上記の星の曲の演奏はなく、専ら軽快なブルース調の曲による組立だったように思います。
この方は、とてもいいボーカルです。
声もイイし上手だし表現が繊細だし、先ずそれに聞き惚れてしまいます。
そして、歌詞がなんとも面白い。
ニューオリンズな気分で聞いてると、やおら西船橋商店街か何かに連れ戻され、そうかと思うとあたたら山の山腹まで引っ張り上げられるといった感じ。
歌詞にも人一倍の才能を発揮されているように感じました。
さて、星の曲のタイトルはわからないはずで、西岡さんは曲にタイトルをつけないそうです。
演奏する曲が全て自作というわけではないそうですが、星の曲は純然たる自作だそうです。
うる覚えの歌詞を掲載する件については、ご快諾いただきました(もう後ろめたくないぞ)。
アルバムは出しておられないそうなので、星の曲を聞くにはライブに通うより手がありません。
更新・追記 --- 28.Aug.1997 Naoki
僕は、1998年5月の Forest Song 弾き語りライブで、西岡さんのこの歌を演奏させていただきました。
西岡さんは、そのころにはもう京都の方へ移られてしまっていて、それまでに数回拝見しましたが、結局のところ元曲は一度しか聞けませんでした。
ですから、記憶の断片をかき集めて歌うよりなく、完全なカバーができたわけではありませんし、むしろ歌詞を加えてしまっていて、ちょっとやりすぎの編曲だったかも知れません。
しかし、これは僕の西岡さんに対する精一杯の敬意と感謝に基づくものであり、ここにそのときの歌詞を掲載します。
(星のうた)
原作:西岡まゆみ
星は あるんだよ
見えなくても あるんだよ
小さすぎて 遠すぎて
見えなくても あるんだよ
タネは あるんだよ
見えなくても あるんだよ
春になれば 芽を出すんだよ
芽が出なくても あるんだよ
子供達は いるんだよ
地球の裏側に いるんだよ
痩せた子供達 いるんだよ
見えなくても いるんだよ
地面は あるんだよ
見えなくても あるんだよ
この雪の下の アスファルトの下に
地面は あるんだよ
僕は いるんだよ
会えなくても いるんだよ
この僕は いるんだよ
会えなくても いるんだよ
星は あるんだよ
見えなくても あるんだよ
小さすぎて 遠すぎて
見えなくても あるんだよ
追記 --- 2.Apr.1999 Naoki
21.Apr.1998 のメモ
死ぬということ、それは人間という生徒達全員に課せられた宿題です。
この話を持ち出すと、みんな嫌な顔をしますね。
そりゃあ、誰だって宿題のことなんか思い出したくはありませんから。
しかしこれは、生きる、つまり「在る」ということを証明する以外に手がつけられない課題であるということにさえ気付いているならば、さして鬱陶しい宿題ではないと思います。
確かに、「在る」ということを証明することが現代科学で不可能なことは、科学それ自体が説いています。
しかしこの世は「在る」はずで、それは自分自身が在るように存在するはずです。
「在る」ということは、まさに信じることから始まるのですね。
そのことを前提に世界と関るにであれば、西岡まゆみさんの「星はあるんだよ...」という歌い出しからなる曲は、我々の宿題に光を投げかけるものです。
僕は、自分のライブにおいて、その曲に「僕はいるんだよ」という下りを付加させて戴きました。
もし西岡さんが聞かれたら、「おいおい砕きすぎだよ」と仰しゃるかも知れませんが、もしかしたら「それでいいんじゃない」と容赦してくださるのかも知れません。
追記 --- 2.Dec.1999 Naoki