歌の宛先
この取るに足りない人生を会社で過ごす時間の如何に長いことか。
好きな仕事でメシを喰っている人は幸せ者でなくて何でしょう。
だから、仕事を好きになる努力というのも必要です。
可愛娘ちゃんの、まあそれこそ取るに足りない歌のバックをやっている凄腕ミュージシャンに「割り切ってやっているのか」と訊いたら、「いや、その曲をとことん好きになって、本気になってプレイしてるんだよ。でなきゃやっていけないよ」という答えが返ってきたことがありますが、そうなんでしょうね。
それにしてもねぇ...
というか、仕事を無理矢理好きになるというより、好きになれるような仕事に仕事自体を変えていく努力というのが必要なんでしょうね。
僕は通信機器、早い話が電話機のソフトウェアを作っているのですが、まあ世が世ならピラミッドの石運び人夫のようなことをやっているわけです。
それもOEM、早い話が下請け、世が世なら綿摘みの小作農のようなことをやっているわけですが、このまえ納入先企業の方がこんなことをおっしゃってました。
「私達は物を作っていると思ってはいけませんね」。
自分の仕事は素晴らしいコミュニケーションが生まれるお膳立てをしているのかも知れない、そこに交わされた通話が一人の人を救うのかも知れないし、もしかしたら世界を変えるのかも知れない、そう考えてご覧なさいということです。
少なくとも電話機を作っているという考え方は改めるべき時に来ているようです。
このインターネットのように、やがて既存電話網に肩を並べ、いずれは飲み込んでしまおうというインフラが成長し続けているのも事実ですが、その媒体も音声に留まらず、文字、画像、動画、プログラム、サイバーマネーなど、電話とFAXだけでは実現できなかった情報を包含していることも事実。
せめて「通信機器に命を与えているのだ」くらいは豪語しておかないと、清貧の職人ならまだしも、直ぐに役立たず扱いされてしまうでしょう。
しかも、情報通信の驚異はこれに留まりません。
“IPv6”ってご存じですか?
ネットに精通していらっしゃる方々には周知の内容で、誤りがあればご指摘頂くこととして、インターネットだとかイントラネットというのは専ら“TCP/IP”というプロトコル(通信手順)で実現されていますね。
このIPアドレスなるものが、要するに電話番号のようなものです。
このホームページを置かせてもらっているサーバー“www.coolcafe.or.jp”の1997年現在のIPアドレスは“XXX.XXX.XXX.XXX”で、これはワールドワイドにユニークなID(世界で一つしか与えられない識別子)です。
論理的には、このIPアドレスが“0.0.0.0”から“255.255.255.255”までの42億9496万7296通り用意されていることになります。
今世界の人口はどれくらいでしょう、だいたい60億くらいでしょうかね。
これを2進数で表すと、32ビットという桁数になります。
で、どうもこれでは足りなくなってきた、というか、足りないのだという考え方が出てきて、これを一気に128ビットに拡張してしまおうということになったわけです。
この128ビットで表現される340億の1兆倍のそのまた1兆倍通りの電話番号みたいなものが“IPv6”(旧称“IPng”)です。
ということは世の中に随分たくさんインターネットプロバイダーがでけるんじゃろなぁとボケてみても仕方ないのであって、この天文学的な識別能力を持つIPアドレスの意味するものはもっと革命的なのです。
先ずはアドレス(メッセージの宛先)の階層化が容易になるので、ルータ(メッセージの郵便局)等の性能が上がり、インターネットの混雑緩和に一役買うことになります。
それから、当然ながら、割り振ることのできる宛先の絶対許容量が増える。
でもそれだけではない、ちょっと飛躍した発想もあります。
例えば、既に携帯電話の普及などで電話というものが町内に1台、一家に1台といった時代を経て一人に1台のような時代になってきていますが、“IPv6”を使えば全ての電化製品にアドレスを与えることだってできるというわけです。
TVなんか当然の話で、洗濯機にも、冷蔵庫にも、掃除機にだって、電気炊飯ジャーにだってアドレスが付けられる。
自動車だとか、腕時計だとか、そんなものにだって可能でしょうね。
可能というより、いや本当にそんなことを検討している連中がいるらしいのです。
すると何が出来るようになるかって、こりゃもう僕の頭では追いつけませんので想像してみて下さい。
想像がつかないようなシステムが出来上がるかもしれません。
更に世界中の人、赤ん坊からお年寄りまで一人一人にアドレス(宛先)即ちID(識別子)を割り振ることが可能になります。
実現すれば、世界戸籍謄本とか電子直接民主主義とか、なんだか夢の有りそな無さそないろんな未来が見えてきますが、反面、犯罪の超大規模化とか地球規模の専制権力闘争とか、なんだかとんでもない不安も予想されます。
人間、そう簡単にデジタル化されるものだとは思いませんが、本気で検討されている内容なのです。
今までの人類にはなかった目に見えぬ新たな現実が構築されようとしています。
つまり、世界中の人間に背番号を与え識別(identified)可能とした上で、新たな全世界的システムを組んでいこうというのです。
我が身にしてみれば、「アイデンティティー」が与えられるわけです。
これは観念的な話ではなく、実際それによって様々なサービスを受け、サービスを生み、認識され、認識し、拘束され、拘束することができるようになるわけです。
「アイデンティティー」は、思春期に思い悩んだり、友人と口角泡をとばして議論したり、芸術的作業の中に求め続けたりするようなシロモノではなくなり、おぎゃあと泣いたら役所からもらってくるようなものになるわけです。
な〜んて言うとずいぶん恐ろしい未来像が浮かんできますが、まあそう騒ぎ立てるほどのものではないでしょうね、実際は。
だって、その「アイデンティティー」って相対的なものですからね。
他の人とは違う、只それだけのものでしかありません。
「自分って何だろう?」という問いを抱いた者は、先ず他人と違うということを証明しようとしますが、それと自己表現は別のものです。
自分が付き合わなければならないのは、絶対的にそこにいる自分ですからね。
裏を返せば、僕の歌の宛先は、そういう整理番号ではなく、絶対的にそこにいる貴方なのですからね。
--- 8.Sep.1997 Naoki
--- 更正 27.Feb.1998 Naoki
文中の“coolcafe”は、1999年5月に閉鎖されました。--- 21.May.1999 Naoki