最高の楽器は、ボーカルでしょうか。
いいえ、そうは思いません。
ボーカルは、極めて不完全で偏っています。
それならば、ピアノでしょうか。
とんでもない、あんなに表現力の乏しい楽器が、どうして最高と言えるでしょう。
ならば、ギターでしょうか。
いえいえ、あんなに難しい楽器もありません。
実際のところ、ギター演奏如きに、いったい誰が満足することが出来るでしょう。
最も優れた楽器は、チェロでしょう。
宮沢賢治の童話に登場した、あの楽器です。
音域、音色、表現力、どれを採っても、チェロは楽器の最高傑作でしょう。
かく言う自分は、チェロのチの字も演奏方法を知りませんし、これから挑もうという意欲もありません。
チェロは超然としてこの世に存在するらしく、その存在感はギンヤンマに匹敵します。
ギンヤンマは、少年のころ数回遭遇しただけで、その後お目に掛からない昆虫の一種です。
さして珍しい虫でもないのでしょうが、まるで幻のように自由で美しい生物です。
巧みに飛行し、浮き草に産卵し、目映い夏を謳歌し、生殖してすぐに一生を終えます。
数億年の太古より、地球と共に生命を営んできた輩の一種です。
飛行する生物は数限りなくいるけれど、魂を飛翔する生物は案外と少なく思われます。
自分が昆虫を愛するのは、オヤジが元々生物学を志し、不本意にも化け学で家族を養い通したというバックグラウンドが何かしら影響しているのかも知れません。
更に、いま自分なりに解釈しているのは、昆虫がいささか単純な輩であるというのが理由だろうということです。
昆虫とて、人間如きが知り得ない真実を少なからず秘めているでしょう。
しかしながら彼らは、故意にそれを隠蔽したり、偽装したり、虚偽の発言を行ったりはしません。
彼らは、至って正直で、極めてシンプルに生きながら小さな命を繋いでいる生物です。
そのこともまた災いとなり、多くの種は淘汰され、この関東圏に生息する希少種は、高尾山周辺と、江戸城跡である皇居の森ぐらいなのだそうです。
かつて、友人が丸の内に勤めていました。
すぐそばに皇居の大手門があり、脇差しを差していても可笑しくないような眉の吊り上がったジャパニーズ・ビジネスマンや初老の紳士達が闊歩する中、その友人は皇居の堀の一輪の蓮の花のように輝いていました。
今は無くなったか或いは建て替えられたであろう丸ビルの歪なフロアを眺めながら、その人の夏のようなオーラが訪れるのを待っていたこともあります。
その人は音楽家でもありました。
とてつもなく下手くそでしたが、とてつもない可能性を秘めていました。
音楽を愛する人でした。
その友人と別離してから、自分は却って多くの人と知り合いになり、様々な関係を持つことが出来ました。
ところが、お互いの欲求を満たし、喜びを全身全霊で共有するといった関係は、かなり特殊なものであったようです。
用もないのに会いたくなる、会えば何もしなくても嬉しくなる、そういう関係が確かに存在したと記憶しています。
身辺からギンヤンマが、丸ビルが、チェロが姿を消しました。
愛すべき様々なものを失いながら、人には限られた可能性と運命のみが約束されているのでしょうか。
走れば走るほど、欲すれば欲するほど虚しく、時は自分を変えようとしています。
この無神経に流れる時間の中で、いったい何を欲し、何に接して行くべきでしょう。
信じるべきものは、運命なる妄想ではなく、出会いではないでしょうか。
例えば森を歩く、それだけで出会いは、運命などという陳腐な観念を超えて、そこに在ったはずです。
目の前を緑色に輝く雄姿が横切った、幼い日のあの記憶を呼び戻しましょう。