「最近の若いもんは」というのは、古今東西を問わず常套句なんだそうで、そういうことを口にするようになると、さぁ、そろそろ人生も秋深しということのようです。
確かに、自分が10代の頃を顧みれば、当時の大人達が眉をひそめたくなるようなことばかりをやっていたわけです。
長髪、喫煙、飲酒はもとより、××、▲▲、◎◎‥と、凡そ誉められたこととは言い難い行動を繰り返していました。
自分より年上の、いわゆる団塊の世代になると、もう「族」だらけでして、みゆき族(銀座のみゆき通りあたりに発生)、太陽族(よく知りません)、カニ族(リュックサックを背負って放浪する様が蟹に似ていた)、果てはヒッピーから全学連まで、反体制と名の付く連中があまた闊歩していたようです。
現在は、ちょうどその方々が、社会の中心的役割を担っておられることになります。
団塊の世代とは、戦後のベビーブームで人口が一気に膨れ上がった世代で、その方々が若者であった社会というのは活気に満ちておりました。
そりゃ、お年寄りが大勢いるよりも、若い人達が大勢いた方がエネルギッシュですよね。
しかも、太平洋戦争で完膚無きまでに叩きのめされた日本が、他国の戦争による特需の追い風を受けながら、「戦争に負けた、平和に勝つ」、「米国に追い付け追い越せ」と一丸になっていた時代でもあります。
この米国志向は、反米意識を含め、体制・反体制を問わず共通の価値観でした。
そして、非常にアメリカナイズされた大衆文化の育った時代でもあります。
そういった意味では画一的であったかもしれませんが、その潮流の中にあって、様々な人達が歩み寄り、離反し、協力し、衝突しながら、良きにつけ悪しきにつけ、その時代の活力を生み出していたように思います。
歴史は繰り返すと言いますが、特段何も繰り返す様子はありません。
そりゃ、明らかに違います。
昔はコンビニもなかったし、携帯電話もパソコンもなかった。
そんなことは表皮的、物質的なことであって、人間の価値観や心の営みとは無関係だとおっしゃる方、おられますか?
明らかに違うんですよ。
確かに、ポックリ下駄は、吉原の花魁、70年代のピーコックファッション、そしてこのミレニアムのお姉さん方の奇抜な出で立ちへと受け継がれています。
が、それがむしろ表皮的な現象であって、心の世界は繰り返していないように思います。
情報量は莫大に増加し、社会の変化は指数関数的にスピードアップして、そろそろ人間の大脳皮質の演算能力を超え始めています。
そんな中で、我々の心の営みは、過去に例を見なかった時代を迎えようとしていると思います。
「米国に追い付け追い越せ」という目的意識が体制・反体制を問わず統一的であった時代、社会は一気に同一方向へ邁進して行きました。
大量生産、標準化、効率化、学歴社会などが加速し、公害問題やドロップアウトといった反作用を引きずりながらも何の迷いもなく、一億総中産階級などという言葉に何の疑いも持たず、化石燃料が有限だなんてことを微塵も憂慮しないで走り続けていたように思われます。
自分も子供の頃、経済は成長し続け、人口は増加し続け、世の中は便利になり続けるものだと信じていました。
それらの妄想が飽和して、社会の歪みが爆発的に顕著化したとき、残されたのは現代でした。
そこには、髪の毛を脱色し、ピアスの穴を幾つも開けた若者達が立っていました。
人類が牧畜を始めて1万年ほどになるといいます。
地球には、羊、駱駝(ラクダ)、馴鹿(トナカイ)など、様々な家畜が存在します。
牛もその代表格ですが、古来からアフリカ東部などで飼育されている家畜の牛は、野生の牛と見かけがずいぶん違うようです。
様々な毛色が存在するのです。
カーキ色、白茶のブチ、白黒、茶黒、これらは家畜を掛け合わせたり保護したりすることによる人工淘汰の産物ですが、例えばマサイの人達にとっての牛は「メ・エン」、即ち「民」と同様で、その牛たちの個性を尊重しているそうです。
現代の日本の若い衆の毛色も、言ってみれば個性の主張のようなものでしょう。
最近気が付いたのですが、小学生から高校生くらいまで殆ど合い言葉のようになっているのは、「見かけで人を判断すんなよ」です。
これは、どこから来たのでしょう、学校教育でしょうか、テレビでしょうか。
国家の教育方針は、「個性の尊重」ということを唱い初めているようですが、それは何を意味するのでしょう。
そうだとすれば、学校だけでなく、真の教育現場でもある社会が、どのように変化すべきなのでしょう。
近くに、某小学校があります。
その小学校には、何故か、よく高校生が遊びに来ます。
自分が若い頃だったら恥ずかしくて小学校になんか遊びに行きゃしません。
夜中に忍び込んで煙草を吸ってみたり、バイクを乗り回してみたり。
この前、バイクの連中を見つけたので、「おまえらなんでわざわざ小学校なんかに来るんだ、高校のグランド乗り回して怒られてこい」というと、ライトを消して「はぁ」と神妙にしていました。
納得して引き上げるようでいて、実は僕が立ち去るのを待っているという雰囲気でした。
僕は、ただ頭ごなしに「出て行け」と指示することが果たしてこの状況を解決することなのか迷いました。
そして、「空吹かしすんなよ、近所迷惑だから」とだけ言って立ち去りました。
「はい」と彼らは返事しました。
これに似た事件がもう一つあります。
その小学校のプールに忍び込もうとしていた高校生の三人組がいたのです。
自分も若い頃、夜中に中学のプールに忍び込んで泳いでいた前科があるので、むげに叱るのも気が引けて、「溺れて死ぬなよ、後で処理に困るから」とだけ言って立ち去りました。
その後、一人が槍のように尖った柵の先に刺さって救急車で運ばれるという事件に発展してしまいました。
いずれのケースも、高校生達は過ちを犯しているし、通りがかりの一市民は大人としての役割を果たさなかったと言えます。
それは認めざるを得ません。
それはそれとして、僕には、大いに不満なことがあります。
何故奴等はわざわざ小学校でバイクを乗り回そうと思うのでしょうか。
何故プールの柵は人が重傷を負うほど尖っていなくてはならないのでしょうか。
正解は皆様のご高察にお任せするとして、今時の若い衆は、出で立ちこそ一見自由奔放ですが、実は以前にも増して疎外感を持って暮らしているのではないかという気がします。
情報は増えた、教育も高等になった、世の中は便利になった。
携帯電話もあるし、コンビニもある。
友達ともすぐ連絡がつくし、バイクを駆れば夜中でも目的地に行ける。
しかし、逆に欠落していったもの、失いつつあるもの、発展・進歩ではなく衰退・退化しているものがあるのではないでしょうか。
これは、大人社会が悪いとか、そういった短絡的なものではなく、幼い内からそういう社会にどっぷり浸かった若者達自身も、被害者兼加害者として存在しているのではないかと思います。
この試練を彼らがどうくぐり抜けてくれるのか、そのために我々は何をし何を残さなければならないのか、そろそろ真剣に考え始めるオヤジの一人であります。