インターネットの憂鬱
算盤や計算尺以外の計算機との最初の出会いは、三十数年前、母親が勤めていた大学の実験室でした。
コンピューターという程の代物ではありません、「手回し式」なのであります。
縦10cm×横20cm×高さ10cmほどの黒い鉄の塊のようなもので、例えば掛け算をしたいときは、小さな金具を動かして基数をプリセットし、乗数分だけハンドルを回すというような操作方法です。
算盤の得意な方であればその方が余程手っ取り早そうではありますが、質感が堪らなくイイカンジでありました。
電卓というものがいつ頃出てきたものかよく記憶していないのですが、電気仕掛けのコンピューターに出会ったのは大学に入ってからです。
プログラムは、穿孔機というものを使ってカードに穴を開ける形で作成し、それをコンピューターに入力し、計算結果をリストで受け取ります。
ところが、コンピューター本体は電子計算室というところの中に鎮座しているらしく、直接見ることが出来ません。
入出力は研究室の学生がやるのでして、一般の学生はポストに穴あきカードを入れるだけ。
一両日たってやっと結果が得られるのですが、"Errors occured at ‥, Errors occured at ‥, Fatal: Too many errors are detected."(致命的:エラー過多)みたいなリストしか出てきませんから面白くも何ともありませんでした。
既にパソコンと呼ばれる小型コンピューターもありましたが、数が少なく、滅多に触る機会がありませんでした。
そこで、中古の8ビットパソコンを購入したのですが、入力はキーボードだけ、出力はCRT(ブラウン管)とスピーカーとテープレコーダーだけでしたから、簡単なゲームを作って楽しむ事以外には何の役にも立ちませんでした。
プリンターや外付けのフロッピーディスクドライブは、中古パソコン本体よりも高価だったのです。
後にギター教則本の音録りのためにMIDI(電子楽器を制御したりデータを受け渡しするためのインタフェース)用のパソコンを購入したことがありますが、使いこなせない自分にとって、その頃のパソコンというのは、面白そうだがたいして役に立たない高価な物という印象がありました。
パソコンと本格的に突き合うようになったのは、就職してソフトウェアプログラム開発に携わるようになったからで、そこで作ったものが取り敢えずプリントアウトされたり、ディスクを介して人に渡されたり、ROM(プログラムを記憶して動作させるためのICの一種)に焼き付けられたりと、実際になにか成果物のようなものを産み始めました。
また、米国のサイトとプログラムを送受信するためにモデム(ファイルをピーヒャラーという音に変えて電話線に乗せたりその逆をやったりする装置)というものを初めて使うようになりました。
いや、遅いのなんの、そのためファイルは全て圧縮する必要がありました。
そのうち、社内にちょっとしたLAN(パソコンを伝送路で繋いでディスクやプリンタなどを共有する仕組み)が敷かれはじめ、クライアントパソコンやunixのワークステーションなどを使うようになりました。
その頃、世間では既にパソコン通信やEメールなどが普及し始めていましたが、僕には縁のない話でした。
データ通信系のことに最初に興味を持ったのは、阪神淡路大震災の時、被災地でパソコン通信が活躍したというニュースを見てからです。
パソコン通信を始めるために、初めてクレジットカードなるものを作り、14400bpsの高速モデム(当時)を購入しました。
そのうち社内LANで擬似的にイントラネットの真似事のようなことをやるようになり、勉強半分でその年の内にインターネットのホームページを開設したのではなかったかと思います。
国内では個人一般向けプロバイダの草分け的存在、BEKKOAMEのサイトでした。
次いで、サーバーのいろいろな仕組みが知りたいとCOOLCAFEというプロバイダに移転し "Forest Song" の看板を掲げ、後に今のINFOSPHEREに移り、最近はFORESTSONG.NE.JPなる独自ドメインを設けたりして今日に至っとるわけです。
インターネットを利用し始めたのはほんのここ数年であり、それ以前は全く、徹底的に縁がなかった、いや実際世の中にも殆ど普及していなかったように思います。
ですから、インターネットを介して情報を取得したり人と会話をしたりし始めると、すぐに違和感に苛まれることになりました。
ある共通の方言に馴染まなくてはならなかったからです。
そして、それらインターネット的方言は、実は非常に重要な役割を持っており、単なる流行や美意識とは違う側面を持っていることが分かってきました。
釈迦に説法かも知れませんが、二三ご紹介しましょう。
- パソ通口調
- これがその口調っす。
- 老いも若きも男も女もこういう感じでメールとか書くっす。
これは、丁寧語のようでもあり、親近感のある砕けた言葉のようでもあるっすね。
音楽業界に勤めている友人から、業界人同士が会話をするときは「〜ちゃん」とか「〜氏」とか「〜選手」という敬称を使うと聞いたことがあるっす。
これは、出入りが激しく、必ずしも年功序列ではない業界内で、誰がどこの社員なのか、目上なのかぺーぺーなのか、その辺を把握していられないからそういう呼び方になるんだそうで、一種の符丁ってやつっすね。
パソ通口調もそれに近いもんがあるっす。
つまり、丁寧なようでもあり、親しそうでもあるという、微妙な距離感を保ってるみたいっす。
- ト書き
- なに書いててもいちいち付けちゃうんだよねぇこの括弧書き(笑)
つまり、活字だと雰囲気が伝わらないから、よく誤解されちゃうんだよね(涙)
泣いたり笑ったり忙しいの何の(爆)※
※(爆)は「爆笑」の意味っす。
- 顔文字
- ト書きを更に細やかにすべく使用されるのがこの顔文字なのですよ。(^ ^;
泣いたり (; ;) 笑ったり (^o^) メモしたり (. .)φ 謝ったり m(_ _)m
こういう顔文字のIME辞書まであったりするからすごい。w(@o@)w
何故か、よく汗をかいてるんですね、これは日本漫画の影響でしょう。(^ ^;
欧米では :-) みたいに横倒しの顔文字がよく使われるみたいっす。
- ポスペ口調
- インターネットプロバイダのSO−NETが提供している人気のEメールソフトにポストペットというのがあるっす。
メールを運んでくれるペットのアニメーションが楽しめるソフトっす。
このペットはおやつを食べたり、踊ったり、「ひみつ日記」というものを自分宛に送信してきたりするっす。
その日記には、抽象的だがとても愉快なメッセージが付加されることがあって、読み手の解釈によりタイムリーに楽しむことができるっす。
これって誉めすぎ?
つまりこんな感じっす、最後に単文をちょっとつけるわけっすね。
文面にリズムを持たせるような効果があり、活字であってもノリのある雰囲気を作り出すのに一役かってるっす。
いやマジで。
以上、あまり気の利いた例ではなかったかも知れませんが、こういった例はビジネスメール以外の英文メールにもあるようで、非常にスランギーな言葉が交わされています。
これらは、どれもその必要性から生まれた風潮であろうと思います。
女学生達が例の丸文字を使うようになって久しいですが、美意識云々はさておき、これには日本語の横書きを平易にし読みやすくする効果がありました。
言ってみれば、それと同様の現象です。
つまり、ニュアンスや感情伝達の情報量に乏しいインターネットでは、ある種の必然性を持って、これらのカウンターカルチャーめいたものが育ってきたと考えられます。
これらのことは、必要であったのです。
しかしながら、おそらく、単なるコンピューターアレルギーの方のみならず、こういった世界への拒否反応を禁じ得ない方もおられるはずです。
例えば、僕は関西出身ですが、関西にいるときには関西弁でものを考えていたように思います。
関東に暮らしている間は、関東弁です。
米軍居留地内で遊んでいたときには、なんと(片言の)英語で思惟していたという記憶があります。
ということは、ネットで遊んでいるときは、先に紹介したようなネット語で考えているはずです。
特にネットに入り浸っている若い人達は、そういう人格形成をしていくんじゃないかとまで考えてしまいます。
これって言い過ぎ?
本当に、ネットに浸っている若者は少なくないようです。
妙齢のお嬢様方など、携帯電話を大変利用なさいますよね。
これ、寂しいからだと思うんです。
Eメール(電子郵便)とBBS(電子掲示板)とチャット(電子会議室)を全部巡回しないと気が済まない方もいるようです。
寂しいのだと思います。
僕のような中年もそりゃ寂しいのではありますが、若者の寂しさは自然の摂理でもあると思います。
無性に人恋しくなるはずなんです。
それは、これからの出会いに心を開くために、いわば神が仕組まれた悪戯とでもいいましょうか、そういうものではないかと思うのです。
ところが、そういった思いが、ああいった、ある種画一的なネットの仮想世界で緩和されてしまうことを考えると、なんだか喜んでばかりはいられないような危機感を抱いてしまうのは僕だけでしょうか。
今や、言葉は悪いですが、インターネットを扱えない人が、情報の孤児、或いは新世代的文盲となりつつあるという指摘もあります。
学校教育に積極的にインターネットを取り入れようという傾向もあり、こういったことは必要であろうと思います。
ところが、人と自然、人と生き物、人と人、即ち生身の付き合いの中には、インターネットではとうてい補いきれない非常に細やかで密度の濃い情報交換があります。
仮想世界に没頭し過ぎたために、人間同士としてのコミュニケーションができなくなる、或る意味での第三の文盲が増える傾向にはないでしょうか。
そういったものを、もう一度見直す時代になりつつあるのではないでしょうか。
さて、その人間同士のコミュニケーションに関連して、たいへん素晴らしい媒体があります。
音楽です。
--- 12.Jan.2000 Naoki
改訂 --- 18.Jan.2000 Naoki