春の浅野屋
その車を買ったのはバンドで地方を回りたいという夢があった頃です。
当時は比較的珍しい小型のミニバンで、窮屈ながら7人乗りでした。
如何せんバンドは崩壊、当初は専ら弾き語りの移動スタジオとして活躍しました。
当時の事はこのエッセイでもちょっと触れています。
孤独な活動に付き合って一緒に走ってくれた車です。
しかし、間もなくその車は、
少年サッカー御用達の「スポーツカー」に変身しました。
ある時は機材車、ある時は遠征車、
怪我をした子を病院へ搬送したこと5回、その内3回は本当に救急車代わりでした。
冬の雨の日の大会では、1チーム丸々重なり合うように詰め込んで
子ども達の乾燥機代わりになりました。
やはり冬の雨の大会当日、朝から風邪を引いて高熱を出してしまった子を
半日エンジンを掛けて寝かしておいたら帰る頃に治っていたという奇跡も。
女子サッカークラブを立ち上げてからも同様で、
遠征車という名の子ども移動宴会場に。
子ども達の面白い話に気を取られて交差点や会場の入り口を間違えること数度。
天窓も開くので人気があり、「デルピ車」と呼ばれながら、
車自身けっこう幸せなカーライフを送ったのではないでしょうか。
その車も10年車、
いやいやまだまだ傷みもなく快調に走るのだけれど、
思うところあって手放すことにしました。
女子サッカークラブがまともな活動をできるようになり
今の名前になってからの2期生、
彼女達を送り出した時点で何かフッと感じた妙な気持ち、
ある種の達成感といえばそうかもしれないし、
センチメンタリズムと言えばそれもそうだし、
いわゆる春の感覚とでもいうか、
そんなものがそうさせたように思います。
春、なんともいえない季節です。
ユーミン(松任谷由実さん)の歌は改めて聞くとなかなかいいねぇ、
などと言って昔の僕を知る友人から怪訝な顔をされたことがありますが、
あの方の歌の一節に、春よ、迷い立ち止まる時、というのがある。
そんな不安な郷愁、生暖かな乱風を伴う春。
2期生達の卒団式を眺めている時、
頭の中にはアヴリル・ラヴィンのこんな曲が流れていました。
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How does it feel to be different from me?
Are we the same?
How does it feel...
人生何度目かの春を迎え、自分もずいぶんと変わったものです。
今では50人近くの部門を任せられ、嘘でも皆を導く立場にあります。
最近、部門のWEBに全員が自己紹介ページをアップするよう指示しました。
「遊び<半分>で」と注文を付けたのだけれど、
このニュアンスを汲める者は多くないようです。
これ、今はなき侮易徒夫(ブイトフ)の教え、
遊び半分ってことは、あと半分は真剣ということ。
履歴書のようなページ、酒瓶だけ掲示したページ、
やっつけただけのページ、やたらとプライベートなページ。
でも、各々が各々の内面、少なくとも社交性の本音の部分をよく反映しており、
業務中のペルソナがうっかり外れているところが実に興味深い。
部下とはいえ、学士はもちろん、マスターやドクターまでいるわけです。
僕は、ちょっとしたリスク承知で、自分の自己紹介に敢えて最終学歴を書きました。
早稲田大学理工学部中退、恥ずかしくてもこれが真実なのだから仕方がない。
そんなやつが上司なのかと不審がられるかもしれないが、
逆に言えば、学歴はメダルと一緒、それ自体は何ものでもない。
そのメダルを得た(あるいは放棄した)自分自身が資本なのであり、
勝負は社会に出てからなのだ、みたいなことを暗に発信してみたつもり。
早稲田出身者には有名になって活躍しておられる方が大勢います。
デーモンやサンプラザといった同世代のタレント達も、
本や雑誌で早稲田のことをいろいろ話していると聞きます。
けれど、大凡僕の方が詳しい。
なにせあそこには7年もいましたからね、自慢にはならないけど。
初めて一人暮らしをしたのもあの町でした。
いまや7年なんて瞬く間なのだけれど、
その頃の7年間というのは妙に比重が大きく感じられます。
おりしも今日、あるフォーラムに参加する為に早稲田に行ってきました。
半年ほど前に神楽坂でライブがあったとき、
出待ちの時間にちょっと散策したのだけれど、
今日改めて行ってみると、界隈の様子がつくづく変わったなと思いました。
バンカラと言えば聞こえはよいが、ソコハカと貧しげで
ムサい(「むさ苦しい」の略と思われる)早稲田のイメージが、
なんか自由が丘みたいな、代官山みたいな、
そういう小綺麗な街になっとるのです。
さっそく道に迷ってしまったくらいです。
フォーラムは現在の業務にも直結する興味深い内容で、
ついでにちょっと横道に逸れた話が胸に引っ掛かりました。
経営コンサルティングをコンピューターで自動化できないかという質問があった。
少なくとも未だ無理だという回答。
コンピューター対プロ棋士の将棋対決を辛うじてプロ棋士が征した例が挙げられました。
コンピューターは網羅的に数百万通りの棋譜を猛烈な速度で演算しながら戦います。
プロ棋士も同様のことをやっているのかというと、そうではないのだそうで、
直感的に浮かんだ二、三の手を掘り下げて考え決断を下す。
コンピューターは、実際に有るデータ、既にされた事の中から答を導くのが得意です。
しかし、どこにも無いデータ、未だされていない事の中から答を導くのは苦手なのだといいます。
人は無から考えることができる、そこがコンピューターに勝る部分なのですね。
人は不安という捉え方で無と対峙します。
ともすれば不安は恐怖と混同されてしまいますが、実は異なるものです。
例えばライオンは恐怖ですよね。
ライオンが出てきたら怖い。
けれど不安は、もしかしたらライオンが出てくるかも知れないといったもので、
そこにライオンはいないわけです。
いないから、不安なのですね。
人はいつも何かと、誰かと関わって暮らしています。
安心して暮らしていると言ってもいい。
けれど、なにか関われないもの、今ここにはないもの、
即ち無が現れた時、それは不安として認識されます。
まだコンピューターは、不安を感じるまでには進化していないのですね。
スタンリー・キューブリック監督の名作「2001年宇宙の旅」という映画がありました。
これには宇宙ステーションに組み込まれた“HAL9000”という人工知能が登場します。
“HAL”とは、当時コンピューターの代表的メーカーであった
“IBM”の3文字をアルファベット順に一文字ずつ遡って捩ったものだという説があります。
要するにコンピューターなわけですね。
こいつが不可思議な行動を起こすようになったのが事件の発端。
これはピーター・ハイアムズ監督が製作した続編
「2010年」の方だったか、僕の記憶が正しければ、
最後は宇宙ステーションを切り離してHAL9000を破砕することになります。
HALの生みの親である博士はずっとその傍に付いていてやります。
HALは問いかけます。
「博士、最後ニヒトツ、質問シテモイイデスカ?」
「いいとも、言ってごらん・・・」
「コンピューターモ、夢ヲミマスカ?」
博士は少し口ごもり、深く息をついてから答えます。
「・・・ああ、きっと見るとも!」
あ、これ全部僕のうろ覚えです。
もし間違っていたらゴメンナサイ。
フォーラムが終わって小腹が空いたので、
大隈通り商店街に行ってみました。
昔あった幾つかの店は残っています。
中でも、浅野屋さんという蕎麦屋は、学生当時最もお世話になった食堂の一つです。
界隈には老舗の蕎麦屋が何件かあるのですが、
浅野屋さんは気取らずアットホームで暖かいもてなしが特長でした。
今でも浅野屋さんがあるのは神楽坂ライブ時の散策でも確認していましたが、
そのときはちょっと入るのを憚った。
改装され、イメージが変わっていたからです。
変わっていないのは屋号だけで、オーナーは違う人になってしまったのかもしれない。
あのシュッとして無口で厨房からは滅多に出てこないご亭主と
少女のような笑顔で迎えてくれる「浅野屋のおばちゃん」がいなければ、
それは浅野屋であって浅野屋ではないということになります。
今日は、覚悟をして入ってみました。
繁く通っていたころから三十年近く経つわけですから、
違う人が店のやりくりをしていても不思議ではない。
ところが、なんと、おばちゃんがいた、ご亭主がいた、
二人とも現役バリバリなのです。
ご亭主の凛とした出で立ちはそのまま、
おばちゃんの少女のような笑顔もそのまま、
これで内装が以前のままだったら、
僕は完全にタイムスリップしてしまったことでしょう。
アンチエイジングという言葉が流行っていますが、
浅野屋のおばちゃんは森光子さんを凌ぐかもしれません。
当時好物だった鰊蕎麦を注文。
他の店より一回り立派な鰊の甘露煮に鰹出汁がよく絡み、
薬味は刻み葱に加えたっぷりと下ろし生姜が添えられています。
これが絶妙。
鰊蕎麦には下ろし生姜なのです。
そうそう、この味、って感じなのです。
ご馳走を堪能し、ゆっくりとくつろいでからお勘定をしようとすると、
おばちゃんは目を輝かせてこうおっしゃった。
「先程からチラチラ拝見していたのですけれど、思い出しました!」
二十数年前、ふらふらと店に来ては蕎麦を啜っていた、
あの痩せたヒゲの学生を、おばちゃんは覚えていてくれたというのです。
これには流石にぐっときた。
外に出ると、例年より7℃低いという肌寒い夕暮れ。
あの生暖かい夜風ではないが、それでも秋冬という気がしないのは不思議。
やはりこの空気は春、不安な郷愁を漂わせていました。