刻時の証

 最初に彼を見たのは、1981年、大手楽器会社主催のコンテスト会場だった。 彼のいたバンド「スーパースランプ」も、僕のいた「スパズロ」も、 当時で言うニューウェーブ系に属していたのではないかと思う。 例えば、"DEVO"、"TALKINGHEADS"、"XTC"といったところがその類で、 1979年に発生したパンクムーブメントの余勢をかったような音楽であるが、 本人達がパンク(チンピラ)ではなくニューウェーブ(新しい波)だ と自称したことから、別のジャンルと思われていた。

 そういった音楽の新鮮さは、多少なりともビートに現れていた。 これには、当時流行したもう一つのジャンル、"CRAFTWORK" や "YMO" に代表される テクノ(科学技術)音楽が関与していた。 テクノミュージックでは、今でこそチャチな代物ではあるが、 シーケンサーという装置がリズムやテンポを提供していた。 勢い、ハイテンポの縦乗り、即ち表拍と裏拍が均等のせっかちなビートになる。 ニューウェーブ系も、そういったビートに感化される傾向があった。 そういったビートは、機械音や電子音の氾濫する近代にフィットし、 それまでのロック(揺れる)音楽と一線を画すことに役立った。

 しかし、彼の叩くドラムはそうではなかった。 底流に横乗りの血が流れている、そんな印象を与えた。 横乗りは、裏拍が表拍より短くなり、その比率が1/fで揺らぐ。 難しいビートではない、極めて自然で、心臓の鼓動にも近い。 それもそのはず、彼は大学ではジャズ研に所属していたそうだ。 スイング男がニューウェーブを叩いていた、という格好である。

 後で知ったところ、彼のお気に入りのドラマーは、 Jack DeJohnette や Vinnie Colaiuta といった ジャズやフュージョン系の垢抜けたプレイヤー達であった。 だが、初めて彼を見たとき、僕は Ginger Baker を想起した。 最もよく聞いたロックバンド "CREAM" のメンバーであるが、 やはりジャズ畑の出身であったようだ。

 ジャズの特長は、スイング感だけではない。 何と言っても、即興性である。 即興とは、行き当たりばったりに思いつきを実践することではない。 確かに、楽譜等で予め約束されたことだけでなく、 本番中に感じた予定外のことを演奏するのには違いない。 しかし、この「感じる」というところ、感受性が重要なのである。 その感受性は、いつも内向的なものとは限らない。 むしろ自分の外から、即ち、自分を取り巻く環境から、他のプレイヤーから、 あるいは観客から感じたことをその場でリアルタイムに演奏に反映するのである。 よって即興には、感じ取る力、音楽ではことさら聞く力が必要になる。 そういう即興により、他のプレイヤーとの間に、 追従したり、誘いをかけたり、呼応したり、反駁したり、敢えてスルーしたり といったコミュニケーションが発生する。 ジャズにせよ、ロックにせよ、即興性の優れたバンドの演奏は、 ダイナミックなチームスポーツを連想させることが少なくない。

 そのコンテストにおいて、彼の即興性は多少孤独の中に 封じ込められいる感があったが、持ち前の感受性は多いに輝いていた。 叩き終わって湯気を上げている彼に、思わず「いいドラム叩くね」と声を掛けた。 「ああ、どうも・・・」、これが彼との最初のコンタクトである。

 数年後、初めて彼と一緒に演奏したのは、 同じコンテストに出ていたバンド「オレンヂチューブ」ではなかっただろうか。 そこで親しくなった彼を、僕は幾つかの自分のバンドに招聘した。 その演奏の中で、お互いに非常に相性が良いことが分かってきた。 二人の音楽的なバックグラウンドは必ずしも一致していなかったが、 結局のところ、相手が何をしようとしているかを自然に察知できた。 手数が多く頻繁に挑戦的なリズムを差し挟んでくる彼のドラムを 合わせ難いと感じるプレイヤー達も少なくなかったが、 僕に限っては水を得た魚のようなプレイが可能になり、 彼もまた水を得て、お互いを稀有な理解者と捉えるに至った。

 彼と最も多くプレイしたのは、 初期(1980年代)、中期(1990年代)、後期(2000年代) の3度に渡って各数年を共にした「かまし連発」というバンドだろう。 その後期において、彼に静かな異変が起こっていた。 酒が深くなっていたのである。 ドラムを叩き終われば、スポーツドリンクか、せいぜい水でも飲みそうなものだが、 彼はいつもポケットウィスキーを携帯しており、それを取り出してはゴクリとやっていた。 ライブ前から飲み始め、ライブ後の打ち上げでは泥酔するまで飲んで朝を迎えていた。 周りの人間も心配しないではなかったが、酒が彼の楽しみの一つなのは明白だったし、 彼が他人の忠告を受け入れるようなタイプでないことも皆知っていた。

 3年ほど前「かまし連発」の活動が終わった。 最後に一緒にプレイしたバンドは、ギタリスト 大島和彦氏の追悼として2年前に再集結した「オレンヂチューブ」だろう。 奇しくも最初に出会ったバンドで演奏したわけだ。 その後共に演奏することはなく、最後に会ったのは1年前、 「四人囃子」のオリジナルメンバー 中村真一氏の追悼演奏会を観に行ったときである。 時折かかってきていた深夜の電話も、 元「スーパースランプ」のギタリスト 金子周平氏が亡くなった知らせを最後に途絶えた。

 月日が流れ、今月半ば、飲んで帰る電車の中で、 僕は何の拍子か、魔が差したとでもいうのか、 久しぶりに「かまし連発」のメンバー達にメールを打ちたくなった。 「心に沁みる音楽をやってみたい、それも、かましで」。 ボーカルの盛口逸平とベースの星島裕樹は、すぐに返信をよこした。 ギターの宮本悦次郎からの返信はないが、これは想定内だった。 しかし、ドラムの丸山雄一から返信がないのは解せなかった。 余程ボーカルに不満なのであろうと思っていたが、 その1週間後、ボーカルからの電話で彼の訃報を知った。

 1ヶ月ほど前、お母上の病状が悪化したため、 彼は救急車を呼んで病院に連れて行ったらしい。 如何せん、彼自身も体調を崩しており、 一緒に入院することになったのだという。 その後、お母上は快復したが、彼は快復しなかった。 肝機能が殆ど失われていたのである。 医師が、友達を呼ぼうかと提案したところ、 「そらみたことかと言われるのが落ちだから呼ばないでくれ」と答えたらしい。 そのため、友人達は、誰一人彼の入院を知らなかった。 ぜひとも呼んでもらいたかったと思う。 そうすれば「そらみたことか」と言ってやったのに。

 彼が刻んだ時の証として、一緒に演奏したCDアルバムが2枚残っている。 1枚は、「かまし連発」のアルバム「さがまじわる」だ。 ここで彼は、スティックを落とした音をリズムに加えるという前代未聞の芸当をやっている。 彼は Frank Zappa のような前衛性やユーモアも好む男だった。

 もう1枚は、シンガーソングライターbisqの「留学生活」というアルバムである。 彼は、bisqの音楽が好きで、彼女を高く評価していた。 共に参加した星島裕樹が、通夜にCDを持参して掛けてくれた。 彼も喜んでくれたに違いない。 僕は、焼香の済んだ誰もいない式場に戻り、 棺桶の端をポンポンと叩きながら、一緒にその音楽を聞いた。

 このアルバムの録音に際しては、 リズムセクションをできるだけ一発録りにして、 ガイド(録音の目安にするメトロノーム)を外してもらった。 その方が、彼とのコンビネーションを引き出すのに好都合だったのだ。 彼は、アレンジやミックスダウンにも積極的に関わって、 我々の音楽の息吹を余すことなく収めようとした。 ここに収録されている各楽曲、 殊に名曲「希望和平」(邦題「平和の願い」の中国語バージョン)は、 我々の珠玉のコンビネーションを今も留めている。

ドラムス 丸山雄一

--- 2012/11/28 橋本

--- 2024/4/22(更正)

back index next