雲の実体

 自分の通夜にはどんな音楽をかけてもらおうか、 といったことをツラツラ考えるに、自作曲は困るな、 ということだけは何となくイメージできた。 死んでも死に切れないような気がするからである。

 やはり、他人様の楽曲の方が迷わず成仏できそうだ。 先ず、ギターモノを考えておく必要があるだろう。 筆頭に浮かぶのは、Jeff Beck の "Where Were You" だ。 ギターによる表現をここまで極めた例を他に知らない。

 次に、やはり歌モノは外せないだろう。 これには数え切れないほどの候補がある。 片っ端から列挙することもできるが、 一曲に絞れと言われたら、回答には迷わない。 Joni Mitchell の "Both Sides Now" だ。 ギター1本で弾き語られた1969年のオリジナルリリースも素晴らしいが、 通夜ということであれば、オーケストラをバックに濃密に歌い上げられた 2000年のアルバムのテイクが相応しいだろう。

 アイスクリームのお城のような雲(これは雲の上側である)、 雨や雪を降らせて行く手を邪魔する雲(これは雲の下側だ)、 両面あるけれど、実のところ私は雲のことを何も分かっていない、 これが一番の歌詞。 二番では雲が恋愛に、三番では人生に置換される。 それらは両面あるけれど、実のところ私は何も分かっていない、と歌う。

 なぜこの楽曲をそんなに気に入ったのか、 詞とメロディーの美しさ、奥深さはもちろんのこと、 この楽曲がとんでもないことを歌っているからだ。 さて、ここからは専門外、直感に由るので、 多少の誤解や曲解はご容赦頂きたい。 だが、大凡のところ、的外れではないだろうと思う。

 "Both Sides Now" は、「雲がある」という前提で歌われ始める。 確かに、気持ち良さそうに空に浮かぶ雲が見えたのだろうし、 冷たい雨にも降られたのだろうから、「雲はある」のだろう。

 我々は、「〜がある」ということを信じて疑わない。

 だが実際のところ、雲というのは、そう単純な代物ではない。 中に入れば五里霧中、どれが実体か分かったものではない。 これを科学は、水滴、分子、原子、素粒子にまで還元して、 そこに「あるのだ」という説明を試みる。 如何せん、どれが「その雲」なのか、本当のところは分からない。 文字通り、雲を掴むような話なのだ。

 我々は、もうひとつ、 「〜がいる」という表現を持ち合わせている。 「犬がいる」とか「猫がいる」とか「友達がいる」とか、 「ある」だけでなく、動く可能性がある、もれなく命も付いている、 といったニュアンスだ。 ただし、「松の木がいる」とは言わないから、 どうやら動物が対象で、植物には適用されないようだ。 キノコはどうかというと、どうなのだろう。 菌類は、DNAの観点では植物より動物に近いのだそうだ。 とすれば、キノコ狩りで獲物を見つけたときには、「マッタケがいる!」 と叫ぶべきなのかもしれない。

 しかし、少なくとも「山がいる」、「川がいる」、「地球がいる」とは言わない。 それらは静止しているもの、ないし無生物と分類されているからであろう。 物は「ある」、命は「いる」。 では、生物と無生物は、何が違うのか。

 分かりやすいのは、歯と歯の詰め物の違いだろう。 生きている歯は、変化している。 削れたり、酸に溶かされたり、虫歯になってしまったりという意味ではない。 分子、原子レベルで、入れ替わっているのだ。 詰め物は入れ替わらない。 一生細胞分裂をしないとされる脳細胞でさえ、 分子、原子レベルでは、いつも刷新されている。 これは、同位元素を使った実験で証明できるらしい。 何年かぶりに会った人から「まぁ、お変わりなく」と言われようと、 実は丸変わりしているのである。 世界的な生物学者である福岡伸一博士の著書 「生物と無生物のあいだ」からすこし引用させて頂く。

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 DNAの発見者であるオズワルド・エイブリーも、 その構造を解き明かしたジェームズ・ワトソンとフランシス・クリック、 そしてロザリンド・フランクリンも充分に意識していなかった DNAの動的な姿がここにある。 原子の乱雑な振る舞いと秩序の維持を考え続けた エルヴィン・シュレディンガーの省察もその地点には達していなかった。 ただひとり、ルドルフ・シェーンハイマーだけがその秘密を感得することができた。

 秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。

 <中略>

 エントロピー増大の法則は容赦なく生体を構成する成分にも降りかかる。 高分子は酸化され分断される。 集合体は離散し、反応は乱れる。 タンパク質は損傷を受け変性する。 しかし、もし、やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、 このような乱雑さが蓄積する速度よりも早く、 常に再構築を行うことができれば、結果的にその仕組みは、 増大するエントロピーを外部に捨てていることになる。
 つまり、エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、 システムの耐久性と構造を強化することではなく、 むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。
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 どなたか失念したが、 命を小川にできた水の渦に喩えておられた。 たしかに渦はそこに「ある」。 けれど、それを構成する水は常に流れており、 一時として留まってはいない。 人は、物が置いて「ある」ようには存在せず、 小川の水に渦が「ある」ように存在しているのだ。 さらさらと流れる水面に、渦は突如現れ、 しばらくその姿を保って、ふといなくなる。 しかしまた、ふと誕生する。 なぜ、渦は、誕生するのだろうか。

 小生が大学に入学した年、 Ilya Prigogine という科学者がノーベル化学賞を受賞した。 彼は、非常に興味深い観点を世界に提示したのである。 嘘も方便、平たく言うと、こんな塩梅である。 物は放っておくとどんどん崩れて混沌に帰してしまう。 「覆水盆に返らず」である。 ところが、それは閉じた環境の中の話であって、 環境が無に開かれているとき、覆水は盆に返り得る、というのだ。

 この原理を本格的に理解したい方は、 「散逸構造論」というキーワードでいろいろ調べてみて頂きたい。 小生は遠慮しておく。遠慮はしておくが、ただ言えることは、 そのお陰で、宇宙も、星も、台風も、小川の渦も誕生する、ということだ。 即ち、無から有が、混沌から秩序が発生するのである。 その最たるものが、有機物であり、生物であり、生命に他ならない。

 すると、そこにあるもの、そこにいるものは、 どれもよく似ているということになる。 キノコも、小川の渦も、雲も、 自ら誕生し、そこにあり、そこにいるのだ。 "Both Sides Now" の凄さは、 そのキノコや、小川の渦や、雲と同列に、 恋愛や、人生を並べたところである。



--- 2012/12/10 橋本

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