2ヶ月ほど前、とあるBBSに何気なく投稿した危惧が、こうも性急に現実の問題となって噴出するとは夢にも思いませんでした。さて、我々は何をすべきか、我々には何が出来るのか。
矛盾を内包しながら、まぁまぁ、なぁなぁ、と生活する日本人的な暮らし方は、よく槍玉に上がるし、事実そうだなぁと思います。しかもそれは、老若男女問わずなんですね。若い人たちはハッキリしている・・・ということもない。大きなものに巻かれながら、クリスマスを祝い、七五三を祝い、お盆には郷へ帰る我々のこのノンポリ主義は、或る意味弱点でありましょう。しかし、事はそう単純ではないようです。ならば欧米的なものが21世紀向きかというと、これまた自信がありません。
日本人的なこの発想の根幹にあるのは何だろう。実は、根幹がないということらしい。例えば、宗教がない。いや、一部には特定宗教の熱心な信者の方々だっておられるでしょう。しかし、元々はアニミズムのような多神教の文化、そういう思考傾向が根強いように思います。「中空文化」とか「空洞文化」とか言いましたっけ。一神教のような統合の文化ではなく、妥協の文化、チャンポンの文化、真ん中がない。真ん中に穴が空いているというのは、非常に脆弱でもあって、いきなりそこに強大な権力が入ってくると、あっけなく征服されてしまう傾向があるらしい。戦前は神道の名を借りた軍国主義であったし、戦後は恵比寿さん、つまりは経済至上主義が世の中を凌駕しました。
しかし、真ん中には穴を空けておいた方がいいという妙なバランス感覚、これにはちょっとした魅力もあるように思うんです。冷戦後、反グローバリゼーション運動というのがだいぶ活発化しているようですね。思想的に統合された社会同士が融合しようとすると、当然の如く軋轢が生じる。「地球は一つ」が「世界統合」を意味してしまったとき、欧米的なスタンスは必ずしも馴染まないような気がします。いろいろなものが妥協し合い、互いの個性を認め、輪になって調和する、そういったまぁまぁ、なぁなぁなバランス感覚は、日本に一日の長があるような気がします。問題は、真ん中の穴を死守する逞しさと知恵の方かもしれません。
真中の穴を富士山(あるいは靖国)の辺りに設けている限りはそうでしょう。しかし、それを北極点辺りまでエスカレートするとしたら話は違う。一神教的文化の最大の弱点は、いかんともしがたい排他性にあります。僕はむしろ地球規模の多神教を期待する、そんな意味の投稿です。
まず、地球規模の情報化とグローバリゼーションはイコールではないと思います。情報の垣が低くなるほど、相手を知り、理解し、各々の個性を認めて共存する知恵が必要になるのではないでしょうか?今話題になっている「グローバリゼーション」とは、「総合化」のことではなく「欧米化」をさしています。もう少し極論すると「米国化」です。これは避けようのないものですが、ロシアや中国のような旧東側大国や多くの小国は、米国的要素をしたたかに吸収しつつ、適度な抵抗を示しながら進化を始めているように見えます。(この前「ムトゥ踊るマハラジャ」というインドの娯楽映画を見て改めてそんなことを思いましたけどね)。
国家や民族というものが意味を持たなくなるだろうという見方には賛同しますが、それは米国化を意味しているわけではなく、第二の大航海時代が始まったということだろうと思います。そういう混沌の中で、中核を固定しない日本的発想には学ぶものがあるのではないかという私見です。
卑劣なテロと真珠湾攻撃を同列に論じるメンタリティーには落胆です。それを特撮恋愛娯楽映画にしていたのはどこの国の会社でしたっけ。広島・長崎では各20万人余りの一般市民が蛮行の犠牲になりました。今回もし核が実戦使用されたら、日本はどうすべきでしょう。国と国との喧嘩なら、まだ理性や政策の入り込む余地はあるのでしょうが、人が憎し、民族が憎しとなってしまうととんでもないことになりかねません。もしアメリカ人に「これは神の啓示だ」とするいわばキリスト教原理主義が芽生えているとしたら、取り返しのつかないことをしてくれたものだと思います。今は犠牲者や殉職者の方々のご冥福をお祈りするばかりです。
幾度となくテロの報道を見た愚息が、「『おーまいがっど』ってどういう意味?」と尋ねました。 「『なんてこった』っていう感じかな」と答えておきましたが、果たしてそのニュアンスを正確に伝えられたかどうか。
民族の文化と一言で包めてしまうと、風貌、言語、生活様式などを連想します。 我々日本人はそこまでなのですが、実は文化の中核をなしているのは宗教です。 昨日ウサマ・ビンラディン氏のVTRが放映されましたが、彼は明らかに今回の闘争を宗教戦争に持ち込もうとしています。 一方、米国はそれを否定し、アラブやイスラムは友人である、今回の闘争は自由社会とテロ組織の対決であるとしています。 しかし、不覚にも大統領の口から「十字軍」という言葉が出てしまったように、いくら多民族多宗教国家とはいえ、米国にはキリスト教的価値観が根強く活きています。 そして、報道を見る限り、想像以上にイスラム圏の反米感情が沸騰しているようです。 旧来通り米国の勝利を解とする世界平和は、本当に実現可能なのでしょうか?
「あなたが言う『平和』の後ろに『今』を失うことの『怖さ』が見えてなりません」 というご指摘にお応えして、既に今を失っている人々がいること、 そのことによって我々の今も失われつつあること、 旧来通りの武器によって今が維持できないことを指摘します。 これを回避するための最も強力な武器に着目しなければならない、 それが「愛と平和」であると思います。 僕は、テレビやインターネット越しの映像からイマジンしています。 あのクリクリとした赤ん坊や医者を志す片脚の少女を守ろうという気持ちは、 おそらく民族を超え、宗教を超えて共通の認識であろうと信じます。 仮にタリバンの全員を処刑し、イラクを壊滅させたところで、 我々はスカッドミサイルやB2爆撃機や無数の地雷の無力さを知るでしょう。
日本に何が出来るのか、前線の外人兵士に食料と武器を届けることなのか、 或いは自由主義社会と協力して全く違う側面から努力をすることなのか。 例えば、日本にも縁のあるカタールはドーハの衛生放送局アルジャジーラは、 違った側面から役割を果たしています。 アルジャジーラは「島」という意味なのだそうですが、 文字通り島国の日本は何をしているのか。 せっかくの平和憲法、批判するばかりが能ではない、 それを傘に着て何か建設的な行動は採れないのか、 世界に冠たるSONYのラジオは役に立たないのか、 余った米は捨てるのか、トヨタの車はどうなのか、 日本人はアカンタレなのか?