ゲシュタルトの祈り
僕はかつてこのエッセイで、作曲というものが個人に閉じた創造行為ではなく、外界や他人との関係の上に成り立つ、いわば伝達行為である旨のことを発言しました。 一方、同じこの一連のエッセイで、人間を信じられなくなる傾向や、孤独の再認識についても触れました。 しかし、僕はまだ音楽活動を続けていて、ここ半年以上は弾き語りを全くやらなくなってしまったけれど、代わりに新たなバンド活動をしています。
音楽は、他人と心を合わせる行為であり営みであるという側面を持っていますから、ソロよりもバンドの方が自然なかたちであろうと思います。 ただ、そこには難しい問題があって、バンドのメンバーは、必ずと言っていいんですが、異なる嗜好、感性、美意識、目的、時間感覚、そして生活を携えているわけで、だからこそ音が合った瞬間というのは歓びもひとしおということになります。 このことは、弾き語りでは為し得なかった音楽における求心的充足の可能性を意味しています。
ところが、先にも述べたように、僕はある種の人間不信を強く持っており、それは周りに疑わしい人が多いということではなく、本質的に人と人との距離というものは、かねて自分が推測していたものよりも遙かに大きいということに気が付き始めています。 見かけ上は橋が架かったようであっても、この溝は深くて広く、どんなに語り合っても、仮に抱き合ったとしても埋まるものではないように思えます。 それを埋めようという努力、あるいはプロセスのようなものが、音楽的行為の一翼を担っているのではないかという気もします。
このプロセス重視の考え方、つまり過去の結果や未来の結果に心を奪われるのではなく、「今を生きる」ということは、音楽のみならず、丁度ここ2年ほどコーチをやっている少年サッカーにも当てはめることができます。
勝ち負けの話ですけど、少年サッカーも勝つことを目標にやるわけです。 まぁ、うちの場合は、「6年生になったら勝つ」という方針ですけど。 この件で、清水市の或る少年サッカーの指導者の方が書いてられたんですが、優勝するチームは1つですから、後の数百というチームは負けて終わるんですね。 ということは、少年サッカーというのは、通常の場合負けて終わるんです。 最後は負けるんです。 十中八九どころか、必ずや負けるんです。 そうしたときに、よくコーチだとか父兄だとかが落胆したり叱ったりしているんだけど、そうすると、子供達はなんでサッカーなんかやってるのかということになっちゃうわけですね、勝たないってわかってるのに。 だから、目標は勝つことにあるんだけど、目的は勝つことではないということに自ずと気が付くわけです。 子供達の、勝つためのプロセスが、それは負けて終わるのだけれど、実に楽しくて、そして貴重な物語になるわけです。
サッカーというのは、ゴルフや野球や相撲などとちょっと違って、失敗のスポーツなんです。 どんなに巧い人も、常日頃から必ず失敗するんです。 何の拍子か失敗せずに連鎖していくとそれが得点に繋がるわけですが、それは稀なことで、90分間で90回ボールに触ったとして、その内の89回くらいは大抵失敗して終わるんです。 しかし、成功への飽くなき戦いがあり、それをサッカーゲームと呼んでいるんですね。
僕にとってのバンドとはこういったプロセスであり、バンド名はプロセスの呼び名ということになります。 「ゲシュタルトムジク」というんですが、或る約束された集団のことを言うんではなく、そういう努力の名前なんです。 なんでそういう名前をつけたのか、会う人会う人と言いたいくらい尋ねられるんですけれど、巧く答えられたためしがありません。 ゲシュタルト心理学の見方からすれば、音楽の認識そのものがゲシュタルトということになります。 ですから、「ゲシュタルトムジク」とは、言い換えれば「音楽音楽」と言っているようなもので、「多摩川リバー」だとか「芦ノ湖レイク」みたいな、冴えない表現かも知れません。
調べてみると、日本には少なくとももう一つ“Gestalt”というバンドがあるようで、そこのホームページにはネーミングの由来として、「メンバーの総和以上のものを生み出す」といったようなことが書かれていました。 巧いことを言うもんだなと感心させられましたが、複数の人間が何か見かけ上一つのことに対して行動するとき、それは或るゲシュタルトの生起に繋がるでしょう。 ここで見かけ上という言い回しをしたのは、例えば力を合わせて綱引きをするといった一次元的な、あるいは極めて実際的な目的を想定すると、生起されるゲシュタルトは極めて希薄であると考えるからです。 バンド活動の本質は、むしろもっと結果を生じにくい方角に自分たちを投機するということだと思います。
僕は、こういったバンド活動を続ける上で、前述の拭いがたい人間不信のようなものが命取りになるのではないかと考えていました。 ですから、弾き語りをしていた一年間、バンド活動を再開しなかった原因はそこにあったであろうと思います。 他人と力を合わせ、心を合わせ、なんらかのゲシュタルトを生起させるという自信がなかった、あまりにも距離が離れすぎているから、といった気分の中にいたように思います。 そういった距離感というものは、今でも持ち続けています。 しかし、今では、距離があるからこそ音楽が生まれるんだという発想に変化しつつあります。
最近、友人から借りた本に、サイコセラピストであったパールズ(Friedrich Salomon Perls, 1893-1970)の話が出ていました。 パールズ博士は、ゲシュタルト療法の代表的セラピストですが、かなり型破りの人間であったようです。 この人間味溢れる先生が残した詩に、僕はちょっとした感動を抑えずにはいられませんでしたので、ここに引用させてもらいます。
ゲシュタルトの祈り ( by Dr.Perls )
我は我がことをなさん
汝は汝のことをなせ
我が生きるは
汝の期待に沿わんがために非ず
汝もまた
我の期待に沿わんとて生きるに非ず
汝は汝、我は我なり
されど、われらの心
たまたま触れ合うことあらば
それにこしたことなし
もし心通わざれば
それも詮方なし
参考:国分康孝著「カウンセリングの理論」
ISBN4-414-40308-1 C3011 P2369E
--- 6.Feb.1999 Naoki
補足:
この詩は、圧倒的な孤独と独立性に根ざしたものですが、
ご丁寧にも「汝」に呼びかける形態を採っているのです。
この大いなる矛盾にこそ、感動を覚えたというわけです。
--- 22.Feb.1999 Naoki