大和言葉的な「イン」という音節が何を指しているのか、そりゃあ知りません、分かりません。 ただ、「隠」、「淫」、「院」等々、どれもネガティブ、ないし内に籠るようなニュアンスに感じます。 英語の "in", "im-", "inn" もそんな感じですが、どこかルーツが繋がっているのでしょうか。 この「イン」こそ、内観に通じるように思えてなりません。 人は、動いてばかりでは人になれず、時には静止し、静止することで内観的になれます。 外交的、社会的な人が好まれ、望まれますが、それだけでは人として失格。 何かと言うとスマホに噛り付いて、ありとあらゆる情報を探し求めているのも、活動的で合理的ですけれども、失格。 内観するというのは進化の末の能力、内観できなくなるというのは退化し始めている証左、というお話。 内観とは、なんでしょうか。 自らの意識を意識することでしょうか。 それよりもっと内側まで透視することでしょうか。 二十代の頃、それっぽい随筆を書いて、横浜元町にあった「マギーズ・ファーム」というロック喫茶のマスターに見てもらったことがあります。 まぁ、鼻で笑われて終わりだろうと思いきや、「面白いじゃん、これ」と評され、「ハイデッガーでも読んでみれば?」と勧められ、邦訳(もちろん)の一部を読んで理解及ばず頓挫したことがありました。 にも関わらず、意志薄弱な割には意識をイシキし、自イシキも高く、イシ頭でしたから、そのとき拾った疑問を携えたまま半世紀近く息してきたわけです。 意識とは如何なるものなんでしょうか。 それでは、神経の成り立ちから振り返ってみましょう。 宇宙で原子レベルの進化が進み、星によって分子レベルの進化が進み、40億年近く昔の地球(または火星?)に単純な生物が発生し、真菌類が発生し、多細胞生物の誕生へと進化して行きます。 そうこうする内、古生代に入り(5.5億年ほど昔)、神経系統が出来たらしく、クラゲなんぞが泳ぎ始めます。 クラゲを突っつくと、身を捩らせる程度ではありますが、反応を示すのは、神経があるからです。 食べられそうなものに触ったら反応して食べちゃう、程度のことができるようになったのです。 まぁ、「リアクション・サッカー」ですけれども。 でも、それだけでは面白くないということで、カラダ造りのみならず、神経系統も進化を続け、遂に前代未聞の獰猛なハンター、三葉虫が登場します。 こいつには大きなパッチリお目々が付いていて、視野の範囲に注意力を集中させ、何かが動くなどして「あ、食べられる!」と感じたら泳いで行ってパクリ。 神経を傾けることができるようになったんですね。 食べられる方とて堪ったもんじゃないですから、こちらもお目々を付けて逃げ回るようになった。 追ったり追われたり、隠れたり見破ったり、体の構造も見栄えも工夫され、上陸する輩さえ現れ、それはそれはいろんな生物が誕生します。 そんなことが、カンブリア紀(5.5億年ほど前〜4.9億年ほど前)に起きたので、「カンブリア爆発」と呼ばれます。 積極的な生き方、いわば「攻撃的サッカー」ですね。 その後、地球が火を吹いたか、太陽がツムジを曲げたか、でかい隕石でも落ちたのか、生物は幾度か大量絶滅を経験し、けれども負けずに進化し、4億年ほど前には脊椎動物っぽい輩も現れ、魚類のみならず両生類、爬虫類、哺乳類、鳥類が誕生し、とうとうジュラシックパークで有名なあの中生代(2.5億年ほど前〜6500万年ほど前)に突入します。 この頃になると、お目々どころか耳も鼻もそれ以外の感覚も進化を遂げ、自律神経(脳幹)が発達し始めます。 脳幹だけじゃなんだからということで、脳蓋(のうがい)が発達し、間脳だ中脳だ小脳だと新たな部署が出来、遂に大脳のような部署まで創られると、もはや外からの刺激だけではなく、内なる刺激にも反応できるようになります。 例えば、満腹ならゴロゴロしてればいいわけだし、腹が減ったんなら死に物狂いで獲物を追いかけた方がいいわけだし、まぁ「緩急のあるサッカー」になってくるわけです。 大脳皮質の発達と相まって、内なる刺激は自律神経的なものにとどまらず、経験的なものをも伴うようになります。 記憶からの連想ですね。 経験の一部始終を監視カメラよろしく全て記憶していると容量オーバーになりますから、意味として記憶していく。 例えば、急に涼しい風が吹いたら間もなく雨が降ったとか、仲間と挟み撃ちにしたらレイヨーが獲れたとか、クルミの実を石で叩いたら割れたので中身を食べたら美味しかったとか、そういうエピソードとして記憶するのです。 「経験から学ぶサッカー」ですね。 エピソード記憶は、仲間に伝えることで更に威力を発揮します。 そこで生まれたのが記号としての言語です。 人間様の得意技ですが、イルカや、ミーアキャットや、ことによると殆どの動物が多かれ少なかれ記号的言語を持っているでしょう。 ただ、人間様の場合は、言語中枢が発達したおかげで、単なるエピソードを仮想のエピソード、すなわちストーリーに仕立てることができるようになりました。 「戦略的なサッカー」みたいになってきた。 ストーリーから、農耕が、村落が、宗教が、祈祷師が、権力が、国家が生まれ、文字がストーリーの共有を促進し、武力が発達し、経済が発展し、ネット社会が生まれ、果たして人間様の脳ミソは或る意味退化を始めた(ネット社会の誕生を「退化の改新」と呼ぶとか呼ばないとか)。 何れにせよ、我々がクラゲやそこらだった頃から思えば、外からの刺激のみならず、むしろそれよりも圧倒的に膨大な内なる刺激を認識して判断しなくてはならない、それで発達したのが、前頭葉という脳の部署です。 身体を動かすのと同時に、思惟思索を巡らすことができるようになったわけですね。 「走りながら考えるサッカー」に至ったわけです。 ということは、前頭葉というのは余程高性能な作りになっているのだろうというと、別にそうでもないらしい。 内外からの膨大な刺激を全て認識することは不可能で、大凡のことは自律神経とか反射神経みたいなものにお任せ状態。 前頭葉の立場としては、単なる神経系統や原始的な脳の部署では扱いきれない高度な認識や判断をしよう、ということなのですが、悲しいかな、同時に一つの情報しか処理できないらしい。 情報源は膨大なのに、意識が処理できるのは一つずつなんですね。 つまり、一つのことだけ考えて一杯々々になっているのが、我々の意識の実態でしょう。 だからこそ「イン」なんだ、というお話をしたかったわけですけれども、「いにしえ」、"initiate"、 「印象」、"impression" ・・・あ、「韻」というのもありますね。 頭韻、脚韻、中国の律詩だろうと、マザーグースだろうと、古今東西ありますね。 韻を踏むのが詩歌、踏まないのが散文、と言った短絡的な解釈だってあるでしょう。 歌詞などまさにその典型で、ボブ・ディランの歌が如何に高尚な内容だろうと、体裁はマザーグースと大差ありません。 晩年のジョン・レノンが、「僕はもう "moon" と "spoon" なんて言葉遊びの作詞から卒業する」とかなんとか吐露したと聞き及びますが、なにか散文的な歌詞の素晴らしい曲があったかどうか。 では、なぜ詩歌や歌詞は、韻を求めるのか。 おそらく、人は、低性能な前頭葉だけで感じたり考えたりできないからでしょう。 音韻に呼び起こされる連想、同期させられるリズム、それらは前頭葉を素通りし、その向こうにある膨大な領域、進化や、遺伝や、言葉にならない内なる領域に働きかけるのかもしれません。 音韻だけではないと思います。 ストーリー記憶やエピソード記憶に働きかける意味的な韻、情緒的な韻、そういったものもあるんじゃないでしょうか。 人は、全身全霊で世界を認識し、やはり全身全霊で世界に働きかけているはずです。
--- 2019/7/31 Naoki
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