前拙作「イン」の後編になるかもしれません。 「バーチャル」の時代だと言います。 「仮想」という意味ですね。 主にインターネット上の世界を指してそう言うので、スマホを手放せない大人も子供も「バーチャル世代」だというわけです。 しかし、それを語るなら一万年は遡る必要があり、最も極端なバーチャル世代はここ百年足らずであり、それもあと三十年やそこらで終焉するだろうというお話をしたいと思います。 「仮想」とは分かりやすい和語だと思います。 「仮に想う」と言うんですから。 現実ではないと言っています。 現実ではないことを指す言葉には他にもいろいろあります。 まず、「架空」ですね。 これまたよく考えられた言葉じゃありませんか、「空に架ける」ってんですから。 あ、「空」は「カラ」の意味ですかね。 いやぁ、「ソラ」の方が夢があっていいじゃないですか。 次に、「嘘」ですね。 これには、敢えて現実と違えるという意図が含まれそうです。 その意図に悪意があって、偽ろうとする目的があれば「虚偽」ですね。 なので、「フェイク・ニュース」の契機には二通りあると思います。 一つは無知、もう一つは悪意。 夢、無知、悪意、それらはいつ頃世界に登場したのでしょうか。 大きく見て数億年、いいとこ数千万年、少なくとも数百万年は遡らなければならないのだろうと推測します。 ただ、その頃の夢は生理現象、無知は無神経、悪意は単なる意図であったと推察します。 我々ヒトサマの言う夢、無知、悪意のことなら、一万年くらい遡ればいいのではないでしょうか。 農耕生活が誕生した頃です。 農耕生活の誕生に関して、ここで知ったかぶりをする心算もないので、興味のある方は別途ググッて頂ければと思います。 ただ、そこに言葉が必要だったことは間違いないでしょう。 言葉は、道具の作り方、用い方、種蒔きや収穫のノウハウを伝承するのに役立ったはずです。 村落を形成するにあたっては、その求心力となるストーリー、たとえば言い伝えが活躍したでしょう。 それを語れるシャーマンは、一種の社会的権威を得たでしょう。 村落同士が協力し、闘い、融合し、あるいは侵攻し、国家が誕生すると、権威の座はシャーマンや司祭から、国王、皇帝に移ります。 国家の繁栄や軍隊の養成に租税の徴収が必要になりますから、もはや口承では間に合わず、文字が発達していきます。 文字は、税収に役立ったばかりでなく、ストーリーをより確かなものとし、より広範に伝承していきました。 人類は、神話や宗教、イデオロギーまでもを共有し始めたのですね。 神話、宗教、あるいはイデオロギーを真実だと言って憚らない方々がいますが、それはその人が真実と信じているということ、信仰、信念であって、他の人からみれば仮想、バーチャルに他ならないわけです。 けれど、共に信じるということになると、集団あるいは民族としての信念、信仰になっていきます。 これがまた非常に頑固な代物で、直接的に自然や真実を探ろうとした科学者たちなぞ幽閉されたり火炙りになったりしたもんです。 その傾向は、現代もなお残っていて、真実を訴えようとして拘留されたり処罰されたりする方々は後を絶ちません。 さて、このストーリーを拡散、共有させるべく現れた最も強力な手段の一つは、新聞でしょう。 古代ローマのアクタ・ディウルナ(Acta Diurna)が起源とされ、「ディウルナ」は「ジャーナリズム」の語源でもあるらしい。 新聞は、文字化されたストーリーを一度に多くの人に送り届けます。 週刊誌のように売れれば御の字のかわら版的なものもあったでしょうが、如何に客観的に事実を伝えるかというジャーナリスト精神は、理不尽な権威に抗うための信憑性を味方につけました。 ただし、新聞記事とて、あくまでストーリーです。 今まで目にしたことのある新聞紙上最高のストーリーは、1897年9月21日ニューヨーク・サン新聞の「はい、ヴァージニア、サンタクロースはいます」という社説です。 その社説が発行された当時には既にラジオが開発されており、1906年には世界初のラジオ放送が開始されました。 文字ではなく言葉で直接ストーリーを拡散できるこの手段は、一万年前に行われていたストーリー口承を爆発的に効率化、広域化します。 ラジオ放送は、新聞と同様のジャーナリズムを継承しながら、新聞では為し得なかった音楽の拡散や商品の宣伝まで効率化、広域化しました。 音楽拡散と商品宣伝の相乗効果はDJ(ディスク・ジョッキー)を輩出し、DJは当時勃興していた音楽産業の事実上の権威に成り上がります。 1951年、当時流行していた若者たちのダンス音楽を"Rock and Roll music!"と紹介した人気DJのアラン・フリードは、1960年に贈収賄で逮捕されました。 アラン・フリードがロック音楽を命名した二年後、日本で一般向けのテレビ放送が開始されました。 米国では1941年に開始されていましたが、なにせ日本は敗戦国でしたから、諸々あって暫く時間を要したわけです。 テレビは、音声に加え映像も伴うという点で映画と同様なわけですが、それをリアルタイムに効率的に広範囲に届けることができるという点では革命的なメディアでした。 やはりジャーナリズムを継承しながら、ラジオで味を占めた経済効果も継承し、益々権威化が進んでいきます。 芸能スターも、ニュースキャスターも、この「スター」が付く輩は皆一般庶民からみれば権威者であり、「有名人」と「一般人」という対義語が生まれたほどです。 ただ、最上級の権威は放送局(国によっては独裁政権)にあります。 幹部層やプロデューサー達がそれを握っていました。 それは、過去にシャーマンや司祭、皇帝、DJたちが握っていたものと同様、自らストーリーを組み上げ、発信し、下々に伝えることができる特権から生まれます。 そして、その信者たちが量産されていきます。 物心がツイたころからテレビもツイていて、テレビと共に生活し、テレビと共に育った我々世代にとって、番組は経典、有名人は神様、テレビは宗教のような存在でしょう。 そんな馬鹿なと思われるかもしれないけれど、様々なストーリーを叩きこまれ、それが皆の共通認識だと信じている点で酷似しているのです。 僕は数度テレビに出演したことがあり、最後は確か某スケベ、基、深夜番組で、痴漢の役でした。 普通に喋ればこなせるような取るに足りない出番でしたが、スタジオに入って照明を浴びると、まるで祭壇にでも立たされたように口がきけなくなりましたから、テレビ世代というのはそういうものでしょう。 何がバーチャルかって、テレビほどバーチャルな世界はないわけです。 しかも、日常を共にし、権威のシモベとして長年暮らしてきたわけですから、こんなバーチャル・ライフもないわけです。 百歳時代だとか何だとか嘯かれますけれど、人格形成の主要な時期は凡そ三十年、仕事に精を出す、すなわち社会に関わりが深いのも三十年ほど。 重複無視で足し合わせても六十年ほどでしょうか。 テレビという宗教で育つのが三十年、テレビ信仰の下で世に関わるのが三十年、そんな世代です。 ただし、これは一過性の世代で、既に旧人類化が進んでいます。 インターネットもストーリーを伝えます。 新聞、ラジオ、テレビが用いたメディア、すなわち文字、音声、映像、すべて利用できます。 しかも、双方向の伝達が可能です。 テレビ・リモコンの何色のボタンなんて、そんな人を馬鹿にしたような双方向通信ではありません。 よって、伝達されるストーリーは、テレビを遥かに凌ぐものです。 ただし、テレビが辛うじて継承していたジャーナリズムは、益々その比率を落とすでしょう。 そして、数えきれないほどの権威が林立することになるでしょう。 よく情報過多の世の中になったと言われますが、憂慮すべきはストーリーの氾濫です。 仮想、架空、夢、嘘、それらに基づく信念の氾濫です。 ここへきて、人類は新たな試練を課せられたのではないかと感じます。 世界中が凍てつき、氷河期を試された人類は、ストーリーを編み出し、農耕を編み出し、国家を編み出して生き延びました。 今度は、頼みとしていたストーリーが氾濫し、様々な権威が乱立するインターネット期に至り、再び試されているというわけです。 人類を代表するような一握りのエリートだけが試されているわけではありません。 我々一人一人が試されています。 その結果が、人類の未来、存亡までをも左右するのだろうと思います。 氾濫するストーリーとどう向き合うか、それは自分自身の内なる世界をもう一度顧みること、自分自身のストーリーは何なのかをもう一度読み返してみることから始まるのではないでしょうか。
--- 2019/8/23 Naoki
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