蛙の王様
長見順さんとセッションしたことがきっかけになり、自分が1997年6月から1998年5月にかけて手がけた Forest Song 弾き語りのことについて、再確認をする勇気のようなものが少し芽生えてきました。
それは、例えば封印していた1997年後半のライブ収録を聞き返すといったことです。
そういうものを聞くと、不思議なことに、今の自分からは一定の距離を隔てて、或る見知らぬ男が歌っているような錯覚を感じます。
いや、錯覚ではない、本当に、時、空間とも隔てているわけで、たまたま同じ記憶を共有している男が歌っているということに過ぎない。
今の自分にしてみれば、「あのときギターはどういうふうに押さえたんだろう」とか、「よくあんな声が出たなぁ」とか、他人事になっている部分があります。
もう一つ、最近甦りつつあるものが、夜中に森へ行くという習慣です。
森とは、「寺家ふるさと村」という、雑木林や田畑、神社、墓地、池、水車小屋などのある環境保全地区で、「こどもの国」という大きな遊園地の裏手にあたります。
"Forest Song" は、自作の「森は考える」という歌に因んでつけた活動のタイトルのようなものですが、この曲は寺家通いを始めるずっと以前に書いたものですから、モデルとなった森林は、なんだかよくわかりません。
もしかしたら、記憶の中に生えている、奈良女子大や附属中学、公園や奥山、桜井や大宇陀、横浜の根岸や滝ノ上、東福院や本牧4丁目といったところの木々かも知れません。
しかし、現在、それらに多摩川上水や寺家の木々が加わっていることは確かです。
僕は、1997年当時、その寺家を歌の練習場所に利用し、ライブ前の約1ヶ月は、雨の日も風の日も、殆ど毎晩通わせていただいたのです。
一度なんか、お巡りさんに職務質問されたことがあります。
歌の練習だと答えても怪訝そうにしていたので、ギターを取り出して「一曲聞かせましょか?」と申し出たんですけどね、「いえ、結構です」とか言って行っちゃいましたけどね。
しかし普段は、まず誰もいない、たまにアベックが車の中で神妙にしている程度です。
その代わり、春には蛙、初夏には蛍が現れるので、寺家の夜は実は華やかであるという印象を持っています。
4月の初め、約1年ぶりに夜の寺家でギターを抱いて、数曲歌ってみました。
1997年当時とは、声も何も変わっていて、どっちがどうということはないのですが、昔より思い通りに出来るところもありまた出来ないところもあり、「今の歌は今の歌だなぁ」ということを実感しました。
始めたのが遅かったので、そろそろ帰るかとギターを仕舞ったのが午前2時半頃、泣く子も黙る丑三つ時というやつで、そのとき、一瞬、小さいが力強く、「カラカラ」という声がしました。
蛙です。
寺家では、4月に先ず「カラカラ」「コロコロ」という澄んだ声の蛙が一斉に鳴き始め、5月を迎えた頃から「ゲロゲロ」「ガーガー」という濁った声の蛙にとって代わります。
多分これは、種類の違う蛙が時期を異にして繁殖期を迎えるためであろうと思いますが、では澄んだ声と濁った声の蛙が各々何という種類なのか、例えば前者が殿様蛙で後者が土蛙だとか、その辺を僕はよく知りません。
先日、二度目に寺家に入った晩には、既に澄んだ声の蛙が大合唱するようになっていました。
僕は、ギターを取り出す前に、車から降りて、この蛙達の正体を見極めてやろうと思いました。
寺家は、青葉台や町田といった市街地に隣接しており、自然が残っているとはいえ、本当の意味の田舎ではありません。
その夜は曇っていましたから、市街地の明かりがこの雲に反射して、森の稜線というか輪郭がくっきり分かるほど空が明るくなっていました。
車を停めている道も、半ばアスファルトではなくセメントのようなもので固めてあるので、空の明かりを再反射して一際白く浮かび上がっています。
蛙達は、右、左、遠く、すぐそこ、というようにステレオの大パノラマで鳴いていて、ある種この世のものとは思えないような音空間を作っています。
僕は、田圃の縁にしゃがみ込んで、声のする辺りを覗き込みました。
しかし、寺家の夜がいくら明るいとはいえ、田圃は真っ黒で、一匹としてその姿はおろか目玉さえも確認することができません。
目を凝らしてみると、そのかわり白い斑点のようなものがあって、まるでブラックライトのような蛍光を放っていました。
よく見れば、その斑点はあちこちにあって、真っ黒な田圃を飾る宝石のように光っているのです。
たいへん不思議に思い、「何だろう?」と恐る恐る手を伸ばし、その一つをつまみ上げてみると、思っていたより質感がなくて薄っぺら、「あ、なんだ」と思いました。
それは、桜の花びらだったのです。
近くに桜の木を見かけなかったことからして、風に舞いながら飛んできてその辺りに散らばったものと考えられます。
そういう美しい夜の田圃を舞台に、蛙達は、右、左、遠く、すぐそこで鳴いているのですが、耳を凝らしてみると、一匹一匹、全くといっていいほど声も、鳴き方も違うんですね。
同じ種類の蛙だから同じ鳴き方をするなんてことはなくて、だみ声の奴もいるし可愛らしい声の奴もいるし、やたらけたたましい輩もお上品な輩もいて、別々の作法で鳴いているのだけれど、全体としては4月の蛙の世界になっているわけです。
僕は、どうしてもその姿が見たかったので、畦道を伝って、森側の田圃の奥へ入っていきました。
僕が歩いても、さしたる足音というのはしないのですが、きっと振動が伝わるらしく、蛙達はサーッと静かになります。
近くの蛙だけ鳴くのを止めればいいだろうに、結果的には一瞬にして田圃一面の蛙が鳴き止んでしまいます。
足を止めて耳を澄ますと、用水路のチョロチョロいう水音だけが残っている。
しかし、間もなく何処かの勇敢な、或いは単に気の短い一匹が「カラララッ!」と鳴くと、他の一匹が「コロロ」と鳴いて、次々と「カラカラ」「コロコロ」が復旧します。
こんなことを繰り返している内に、心なしか、復旧までの時間が短くなっていき、そのうち僕が歩いた程度ではあまり鳴き止まなくなりました。
こうやって、僕は田圃の真ん中まで進みました。
そこは、三方を鬱蒼とした雑木林の小山に囲まれたすり鉢上の地形で、開けた一方の数十メートルくらい先を、さっきしゃがんでいた白い道路が左右に走っています。
ここを、数分に1台くらい、アベックを乗せたと思しき若作りな車が、排気音も高らかに通り過ぎる。
すると蛙達は一瞬声を潜め、チョロチョロいう水音だけが残り、やおら先駆的な輩が「カラララッ!」と鳴き、これにつられて「コロコロ」「カラカラ」が回復する、こんなことを半時間も楽しんでおりました。
蛙達は、右、左、遠く、すぐそこで、みんな声高らかに鳴いていて、その真ん中に立ち、空を見上げ、胸一杯に夜を吸い込み、なんだか蛙の王様になったような気分でした。
--- 13.Apr.1999 Naoki