なっちゃんの宴

 京都で育ち、島根で育った田村夏子さんは、上京し、やがて詩人・田村奈津子さんになりました。 僕のような学生時代の旧友には、夏子はん、なっちゃんという呼び名がしっくり来ます。 なぜか田村奈津子と改名されましたが、数冊の詩集を出版し、幾人かの音楽家に影響を与え、多くの者の胸に形容しがたい透明な記憶を残しました。

 なっちゃんがまだ早大文学部の女学生だった頃、幾度かお付き合いをさせてもらったことがあります。 夜中に二人でどっかのビルの屋上に上がり、東京の夜景を眺めたことを覚えています。 「私は(あなたの音楽の)ファンなんですよ」とおっしゃってくださった。 さりげなく、透明で、でもなにか大きな支えになってくれる優しさを持った方でした。 彼女の回りには、雨上がりの春の夜のような初々しさや、済んだ秋の空のような清々しさや、なにかそういう特別な存在感が漂っていたのを覚えています。 その後、敬愛するお父様を亡くされたことを綴る詩集を戴きましたが、彼女の透明さに益々拍車がかかっていることを感じました。

 卒業後、彼女は旧友達のコンサートに足を運んでいたようです。 一度、うちのバンドのライブにも来てくれた。 音楽活動のことでずいぶんと迷っていた時期でした。 けれど、彼女は手放しに絶賛してくれた。 彼女の言動に、初めて不自然さを感じたときでした。 透明じゃなかった。 なにかとんでもなく明るく振舞っている、一生懸命励まそうとしている、それがなぜだか分かりませんでした。 あのときが最後だった。

 僕は知らなかったのだけれど、彼女は間もなく(あるいは既に)病魔に襲われ、数年の闘病生活を送り、2001年10月11日にこの世を去りました。 訃報を聞いた僕は、あまり実感の湧かぬまま、通夜にギターを持っていこうかと悩みました。 弾き語りを始めた頃、いろんな発見があって、これはなっちゃんが喜んでくれるに違いない、聞かせたいと思ったのを記憶しています。 以前バンドを妙に誉めてくれたことがあるけど、あれはとにかく続けなさいと言うメッセージだったのかもしれない、今度は本当に楽しんでくれるだろうという気がしたからです。 そして、きっとそのうちフラリとまた現れてくれるだろうと思った。 それが叶わなかった。 だから遅れ馳せながら通夜で聞いてもらおうと考えた。 けれど、そんな自分勝手なことで、ご遺族や関係者の方々に迷惑をかけるのは忍びない。 迷って、迷って、最後の5分でギターを置いて出かけました。

 通夜は、杉並方面の、行ったことのない祭礼場で、案の定道に迷いました。 周りに社寺がいくつかあるようで、路地のように細い道が入り組んでいる。 こじんまりとした商店街のシャッターは皆下りていて、幼稚園は真っ暗、住宅もひっそりしています。 そこへ、デンデンと太鼓の音。 どうやら神輿が繰り出した。 白黒格子の半被を着た若い衆、若くない衆、捩じり鉢巻で威勢のいいお兄さんやお姉さんたち、小さな娘を肩車したお父さん、はしゃぎ回るガキンチョども、そんな行列がライトアップされて登場。 ひっそりとした街に忽然と笑顔の集団が現れ、なにか夢でも見ているような情景。 まだ時間があるからと、僕はその神輿行列に追従して少し町内を巡りました。

 祭礼場に着くと、何年、十何年と会っていなかった旧友達が大勢かけつけていました。
「お顔、拝んできましたか?」
「いや・・・いいよ。」
僕は、なぜかその気になれなかった。 なっちゃんがもうこの世に居ないということを、認めなければならないのだけれど、わざわざ目視して認識する気にはなれなかった。 というか、要は、執行猶予が欲しかった。 理屈としては引き受けよう、でも、もはや会えないということは、まだ認識したくなかったのです。

 知った顔二十数人ほどでそのあと飲みに行きました。 とりあえず昔懐かしい顔が揃ったわけです。 ぜんぜん変わってないヤツ、変わり果てたヤツ、音楽で食ってるヤツ、ペーペー、偉いさん、カメラマン、フリーター、主婦、女社長、まだ孫持ちこそいなかったが様々な人生の持ち寄りコンパ。 その席で言ってみた。
「皆聞いてくれ、なっちゃんの追悼ライブをやらないか。」
「賛成ーっ!」「賛成ーっ!」
全会一致、反対する理由はない、けれど、言うは易し・・・

 僕は例の勤務地変更で首が回らなくなり、状況は日に日に悪化して打合せにすら出られなくなっていきました。 皆も忙しい中での企画、当初予定の春実現はスリップ。 そんな中、有志スタッフが次々と現れて実務をこなし、夢を膨らませながら具体化していった。 会場を選定して話を通してくれた音楽家、詩集を入手する人、お花を用意する人、ポスターや記念CDを作成する人、HPを作る人、動員把握と会計で台所を支える人、ライブハウスを下見して出し物と機材をとりまとめる人、二次会の企画や知人への周知に奔走する人などなど、ここで全てを枚挙できないほどボランティアが現れた。 そして、これら多岐に渡る課題をテキパキと整理指揮して実行推進したのは女社長でした。 かつてのカワイコチャンが、こんなに立派な人になっていたとは。

 かくして、直前までの皆の奮闘が結実し、2002年10月27日、渋谷 ON AIR WEST の7階でなっちゃん追悼ライブ「アネモネ都市の宴へようこそ」が実現しました。 この日のために結成されたバンドや、なっちゃんの思い出のスライドショー、女学生のころ彼女が在籍していたバンド "Tiny Chap" の再演、シングアウト。 演奏は半端なものではなく、忙しい中6回もスタジオへ「個人練」に通った人もいた。 各々が、真剣な遊びとでも言うか、エネルギッシュな演奏だった。 僕も "Forest Song" 弾き語りで夢を実現させてもらいました。

 かつてなっちゃんの好きだったユーミンのバックボーカルで現在ソロとして活躍しているEmmeさんの「大きな木」も聞けた。 これはぜひパクリたい一曲、まぁ、Emmeさんのように立派な木の再現にはなりかねるでしょうが、もちょっと虫食いの危なっかしい老木なら可能かも。 冗談はさておき、この歌を聞いて思い出したのは、このエッセイにも書いたことがあると思うけど、以前ラジオで耳にした、東欧の、田舎の、羊飼いの、7才の少女の言葉。 日本から来たカメラマンのオジサンに「大きくなったら何になりたい?」と尋ねられ、少女はこう答えました。

「私は大きな木になりたい。」
「どうして?」
「大きな木になれば枝にいっぱい小鳥達が来るでしょう。
そうすれば私は毎日小鳥達の歌を聞いていられるでしょう。」

なっちゃん追悼のホームページは " http://www.knet.ne.jp/~toshi/natsuko/ " に設けられています。


--- 4.Nov.2002 Naoki

最後の夏の日 (撮影:フォトアルマ山田晋也氏)


--- 8.Nov.2002 Naoki
なっちゃん追悼のホームページのURLを変更。
--- 12.Jan.2003 Naoki

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