廃墟の祈り

 子どもの頃から最も不可思議だったことの一つは宗教です。 僕は奈良で育ちましたから、周りには寺や神社が多数ありました。 お寺の幼稚園に入園し、カトリックの日曜学校に通い、 盆にはオヤジの郷で迎え火を焚くのを興味深く観ていました。 当時の関西がどこもそうであったかどうかは知りませんが、 クリスマスイブの電車には 酔っぱらったサラリーマン達が大勢乗っており、 皆ボール紙製の赤い三角帽をかぶり、 人によってはビニール製の髭眼鏡を掛け、 手には円筒形の発泡スチロールのケースに入った アイスクリームケーキを下げていたように記憶しています。

 宇宙の果てはどこだろうという問いと同じように、 神や仏といった存在の不思議は解き得ない問いとして 子ども心にぶらさがっていました。 それが、学校やなんかで科学を、 例えば地動説や進化論といったものを習ううち、 あんなもん嘘だ、神も仏もあるもんかと考えるようになった。 もちろん、科学をもっと高度に突き詰めていけば 神や仏と無関係には語れなくなってくるわけですが、 とりあえず、子どもの自分はそういう結論を導いた。

 ところが、人間というもの、どこかに宗教めいた心がある。 それは、ある種の倫理観であったり、信じるという行為であったり、 論理的でない何か、少なくとも科学の教科書には書かれていなかった何かであり、 そういった何かは、いつも心と共にあったと思います。 ですから、いきおい賽銭もあげればお神籤も引く、 クリスマスには「きよしこの夜」を歌ったわけですが、 そういった俗人的儀式が 自分にとって全く宗教的意味を持たなかったかというと 必ずしもそうではないのです。 無神論者というよりも、 特定の宗教に籍を置かないこだわりというべきか。

 大学生になって、幾人かの急進的な宗教小僧達と討論したこともあります。 僕も減らず口ですが、彼らはもっと減らず口で根気強かった。 但し、どのケースでも彼らの切り札は同じ、 必ず善悪という言葉に帰着させるのです。 「我々は善であり、他は悪なのである」。 以来、この善悪という言葉でものごとを語ろうとする論者を 僕は一切信用しなくなりました。 こんな胡散臭い言葉はないと感じたのです。

 この善悪論議からもう一つ痛感したことがあります。 それは宗教と称されるものの決定的な弱点でした。 排他性です。 確かに、神仏混淆といった例はあります。 おまけに、嘘か本当か聖徳太子はクリスチャンだったといった説まである。 しかし、おしなべて宗教というものは、 他を否定することで成り立っているのではないか。 他とは必ずしも無神論者や他の宗教をさすとは限らず、 むしろ多くの場合他の宗派をさします。 「宗論はどちら負けても釈迦の恥」なのですが、 宗派が違えば宗論どころか戦争までやってしまう、 それが宗教と切って捨てるのは甚だ短絡に過ぎるのでしょうが、 少なくとも宗教の御旗の下にそれは行われてきた、 古今東西で、それが現実と思います。

 宗派どころか宗教そのものまで違えば、 これはもう絶望的と思われます、 いや、思われましたと言い直しておきましょう。 中東の混乱は異なる宗教とその聖地が深く絡んでおり、 アフガン、イラクといった昨今の戦争も、 様々な事情はあれ、根底には宗教戦争めいたものがある。 もしその表現が正しくなければ、 少なくとも兵士達への動機付けに 宗教が悪用されているように見えます。

 ただ、宗教に進化の兆しがないわけではありません。 イラク戦争回避に向け、カトリックのローマ法王ヨハネ・パオロ二世が イスラムの聖職者達を集め異例の集会を開いたという報道を見たことがあります。 確かに、キリスト教とイスラム教はルーツの部分では繋がっています。 方便的に言えば、 旧約聖書に予言者達が登場し救世主キリストが登場するのが新約聖書、 いやキリストも一人の預言者であり最後の預言者ムハンマドの言葉こそ神の言葉コーランだ、 みたいなもの。 ところがもちろん事実上は宗派と呼ぶにはほど遠く、 世界の二大宗教の体をなしているわけです。 その代表者達がコミュニケートし、同一のゴール「平和」を目指した。 このことは、宗教は排他性の上でのみ成り立つのではないかという 幼い頃の僕の観念を根底から揺るがしました。

 異なる宗教は異なる教義を持っています。 救世主の名前も違えば祈り方も違う。 宗派に分かれれば更に違う。 カトリックでは牧師、プロテスタントでは司祭と呼び名まで違う。 けれど、そういう文化的な詳細はそれとして、 思いっきり抽象化して、理念の部分だけ抽出すればどうなんだろう。 例えば、仏教の理念が「慈悲」だとして、 キリスト教の理念が「愛」であり、 イスラム教の理念が「正義」だとしたら、 いったいどれほどの違いがあるのでしょう。

 明らかにクリスチャンだろうと思っていた宮沢賢治が 熱心な日蓮宗の信徒だったりします。 「銀河鉄道の夜」には幾つかの編集があるのだそうですが その一つには確かにこういう下りがありました。 「どんな宗教の信者であれ、その人の行いに涙することがあるでしょう?」

 ジョン・レノンは「イマジン」という歌で、 "Imagine no country, no religion too."と歌いました。 この歌、9・11の直後に米国で放送自粛勧告が出たといいます。 そのときオノ・ヨーコらはあえてコンサートを開きこの歌を歌ったとも。 「イマジン」は、早すぎた流行歌かもしれませんが、 もしかしたらそれは数十年のアンティシぺーションでしかないのかもしれない。 数百年でないことを祈ります。

 家内はクリスチャンなので、 結婚式は教会で挙げましたし、義父を見送ったのも教会、 クリスマスだ、イースターだといっては教会に同行します。 けれど先にも述べたようなこだわりで僕は洗礼を受けていません。 受けていないのだけれども、その教会に集う方々の柔らかさ、明るさ、 優しさ、いわば空気を、僕はこよなく愛しています。 ところがその教会、一昨日火事に遭ってしまいました。 外国人信者による放火であったとのことですが真相はよく知りません。 信者とは言えない僕でさえも思い出募る場所が焼け落ちたことはショックですから、 おそらく多くの方々が大変残念に感じておられるでしょう。 しかし、器そのもの以上に、柔らかく、明るく、優しい心の集うところ、 必ずや廃墟からの復活を遂げると信じて疑いません。


--- 6.Jan.2005 Naoki

痛々しい姿だが屋台骨は頑丈だった
思いが一つなので自然とチームワーク生まれる


back index next