女の仕事

 僕は今、段ボールに囲まれています。 満員電車で毎朝東京まで通勤してくれている女房のお陰で、 遂にマンション購入に漕ぎ着け、 先ずはこの四谷三丁目の別宅を片づけることになったのです。 女房に頭が下がるのは、子育てをしながら働き続けてきたことです。 今のような育児休暇の制度もなく出産に消費税のかかった時代から今日に至るまで、 いろいろな障壁がありましたが仕事を続けてきた。 なんだかんだ言って、男は家のことに関し、 最後の最後は責任回避するものです。 僕は僕なりにやってきたつもりですが、 「あなたは何もやらない」ことになっている、 それくらい彼女はやってきました。

 そんなわけで、単身泊まり掛けでのらりくらりと箱詰め作業をやっておるわけです。 とはいえ昨夜は、いわば四谷三丁目最後の夜ということで、行きつけの飲み屋に・・・。 この界隈はびっくりするほどの飲屋街ゆえ却って「開拓」はしませんでした。 専ら、御殿場ビールを出してくれるチェーン店で一杯やるのが常です。 少年サッカーの関係で行ったことがありますが、 あのJビレッジと並ぶサッカー施設、時の栖の辺りで作っているビールです。 こいつが美味いってこともあるけれど、カウンターが空いてるのがありがたい。 一人で入りますから、カウンターの居心地で店の良し悪しが決まってしまいます。 ここは仕事帰りのグループ客が多く、たいていカウンターが貸し切り状態なのです。 ところが昨夜は、もう一人カウンターにお客さんがいました。それも妙齢の美女。 こんなときは、気になる分、できるだけ距離を置いて座ってしまうものです。

 女性客はずっと店員のおばさんとお喋りをしていました。 なにやら人生相談的な雰囲気。 店員のおばさんも気さくな人らしく、励ましの言葉などをかけています。 気にしない振りをしながらも聞き耳を立てていると、 次第にその店員のおばさん経由でこっちに話が振られてきた。 なんでも、女性客は結婚して一年、本の編集の仕事に携わっており、 あと数年で編集長にも抜擢されようという有望株。 亭主は医師。 早く子供が欲しいらしく、ここ四谷三丁目に越してくるなり 「ここは子供の部屋で・・・」などと部屋割りをしているらしい。 そこが悩みというわけです。 キャリアチャンスと母になるか否かの綱引き状態。 「子供は可愛いですよ、うちは男だけど、男の子があんなに可愛いとは知らなかった」、 「うちの女房は子育てしながら今も働いていますよ」などと、 いらぬお世話で口を挟み、店員越しの会話が次第に三者会談に。

 彼女は今度、幼児虐待に関する本を出すらしい。 テレビで紹介されているのは氷山の一角、現実は悲惨な例が後を絶たないのだそうです。 ついつい「僕も息子を叩きましたよ」と吐露。 確かに保育園の先生からは注意されたことがあります。 「お父さんが息子さんをぶつから、息子さんがお友達をぶつんですよ」とね。 とはいえ、ここっちゅうときは手を上げてもいいんじゃないか。 「息子が女房に侮辱的な態度を示したら殴ります。理由が重要なのではないですか?」 とかなんとか自己弁護を試みました。 もはや自分より背の高くなった息子、一発では倒れなくなったのでワンツーで仕留める。 息子は僕を睨み付けながら、しかし手を出さない。 父親に手を出すことが、奴にとっては自己否定になってしまうのかもしれません。

 会話の流れで、昔、息子を家の外へ追い出したことを思い出しました。 奴が未だ二歳か三歳の頃です。 夜でしたが、あんまり言うことを聞かないから閉め出した。 奴は、ドアをガンガン叩いて泣いて怒っていました。 仕方がないから家に入れてやり、 「外で寝れば良かったじゃないか」などと皮肉を言ってやると、 奴は泣いて怒りながらこう言いました。

 「お外でなんか寝てたら、犬に踏まれるじゃないか!」

 ちっちゃい子の目の高さ、ちゃっちゃい子の発想に皆で大笑い。 こっちもついつい饒舌になってきて、熱海に旅行した話。 やっぱり三歳かそこらだったと思います。 屋上が露天風呂になっていて、しかもジャグジー。 二人とも裸になってさあ入ろうというとき、嫌がって入らない。 手を引っ張ってもがんとして拒否。 「なんでここまで来て入らないの!」と怒ると、 奴はそのジャグジーを指さし、

 「沸騰してる。」

そうじゃないと言い聞かせてもダメで結局断念。 挙げ句は布団に寝小便されて宿屋に弁償という さんざんな温泉旅行でした。

 そんな可愛い子もいつかはひねてくるんでしょうと問われ、 ますます持って饒舌モードに突入。 小学校に上がるか上がらないかの頃、奴は寝床で手を繋いできたことがあります。 息子と手を繋いで寝る、男親としてこれは如何とも言い難いほど嬉しかった。 奴が小学校高学年になってから、そんなことを思い出してそっと手を握ってみた。 そうしたら、ものすごい勢いのエルボークラッシュが飛んできた。 サッカーなら一発レッドです。

 中学に入ると塾に行くと言いだし、夜十時過ぎに帰って来る。 ある晩、十一時半を回っても帰ってこない上、 持たせておいた携帯電話も繋がらないため流石に心配に。 警察に連絡しようか、いやもうちょっと待とう、 いややっぱり連絡しようと気を揉んでいるところに電話が鳴りました。 息子からだと受話器を上げると、「警察ですが」。 どうやらワルサをして捕まっておったらしい。 いや、ちょうど今かけようと思ったんですよ、などと言えるわけもなく・・・・

 中2にもなると益々生意気に。 「オヤジ、金くれよ」ときたもんだ。 「何に使うんだ」と問いただすと、「服買うんだよ」。 何着も何着も同じような服を買ってそこいらに脱ぎ捨ててあるじゃないか、 これ以上いったいどんな服が必要なんだと言ってやると、

 「秋物が必要なんだよ。」

これには唖然。 おまえなぁ、世の中には夏物と冬物があってなぁ、 お父さんなんかは冬でも夏物のコートを着てるんだ、 秋物っていったいどういう物? ・・・などと説教してみたが結局は説得され貢ぐハメに。

 それでも子供は可愛い、 子供のいない人で素晴らしい人が綺羅星のようにいることは知っている。 マザー・テレサだのフィリップ・トルシエだの枚挙にいとまはない。 けれど、育てる機会があれば大切にした方がいい。 子供は宝なんだ、そんなようなことをくっちゃべり、 話の流れで原爆詩の「慟哭」(大平数子さん 〜1986)の下りを不正確ながら紹介。 剣を抜くことが正義ではありません、 正義とはお母さんを悲しませないことです、 分かるでしょう、 だってみんなお母さんの子供なんだから。 女性客は、私はお母さんに心配ばかりかけてきた、 お母さんに電話しなきゃと店を出て行かれました。 きっとこれから素晴らしい仕事をされることでしょう。


--- 28.Mar.2004 Naoki

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