ことのは

 日本語は乱れているのだそうです。でもまぁ、今に始まった話でもないのでしょう。この列島の有史以来を考えれば、書き物は元来漢文が主流。ひらがなを駆使して大和言葉を書き記した文章を考えると、古くは高貴な女性たちがほとんど。こちらが口語に近いのでしょうね。言ってはなんだけれど、芸術的な価値は別として、非常にダラダラとした文章だった様子。江戸末期に勝小吉(海舟こと麟太郎の父親)が残した口語体の自叙伝「夢酔独言」もその例に漏れず、「〜に会ったが、〜だったが、〜なので、〜してやったが、〜したので困ったよ」といった調子。それを思えば、短文に接続詞を駆使した近代の文章は、ものごとを伝達しようとする言葉としては進化したのやも。

 もっとも、先進諸国の言葉とくらべれば、論理的な伝達力は高くないのだそうです。「失敗学と創造学」の濱口哲也先生(東京大学 特任教授)によれば、戦後の国語教育に問題があるんだそうです。これには小生も大いに同感で、小中学生のころから現国(現代国語)の授業に納得がいきませんでした。「走れメロス、メロスは走った、さぁ、このときのメロスの気持ちは次の3つのうちのどれでしょう」みたいな設問ばかりで、言語学習というよりは、一般的見解の推察力養成講座。以来半世紀以上、小生が未だこのような悪文を書き連ねているのは、全て現国のせいであった、ということでご容赦ください。

 で、元に戻りますが、その日本語が乱れている。例えば、敬語の逆転現象。多少の違いならまだしも、これは気味が悪いですよ、真逆のニュアンスになるわけですから。テレビの司会が「お楽しみにしてください」、電車の車掌が「お乗り換えできます」等々、これ今では当たり前になっている。「お・・・する」、「お・・・できる」、これは謙譲語というやつで、へりくだった行動の表現です。敬語なら「お・・・になる」、「お・・・になれる」とでもすべきところ。いやいや単なる丁寧語なんだよ、と弁護する人もいますが、だったら謙譲語の領海侵犯というもの。

 消えていくものもあります。例えば、鼻濁音。「・・・が」と語るときの"ga"を"ŋa"と鼻にかけるように、濁音を滑らかにする発音です。話し言葉もそうでしょうが、日本語の唱歌のニュアンスがまるで変わってくる。少なくとも、音に敏感な音楽家の方々ならわかるはず、そういう感性は失わないで頂きたい。

 もう一つは、聞き慣れない言葉、新しい言葉の乱用です。ジャポニッシュ(日本人が勝手に創り出した英語っぽいカタカナ言葉)、芸能ギャグ(「イカス」、「シビレル」、「ガチョ〜ン」など)、政治家言葉(「遺憾」、「いかがなものか」、「ほぼほぼ」など)、ギャル語(「イケメン」、「チョベリバ」、「プンプン丸」など)、ネット語(「・・・ナウ」、「わろた」、「リア充」など)、バイト敬語(「・・・のほう」、「・・・になります」、「・・・円からお預かりします」など)と枚挙に暇がないわけです。

 これらに加え、オタク語みたいなものがあるらしい。いや、ネット世代語とでもいうべきなのか、単なる言い回しではなく、何らかの意味を獲得しつつある言葉です。たとえば「中二病」という言葉、ご存知ですか、小生は知りませんでした。知らずに中二のとき関西から関東へ移民したわけですから、傷も浅かろうはずはなかったのでしょう。あ、これ、医学とか臨床病名分類上の言葉じゃないですよ。「セカイ系」という言葉も知りませんでした。ここ一年や二年で出て来たのではなく、もう十分に市民権を得ている言葉のようです。iwatamという方の「ネット世代の心の闇を探る」というページで丁寧かつ思慮深い考察がされていました。

 こういった言葉の氾濫の中で、最近とても興味深く感じているものがあります。「意味わかんない」という言葉です。母親に小言をくらった男の子が舌打ちをして「なんだよイチイチ、意味わかんない」、女学生が夏休みのことについて「あの教授、宿題出すって言うんだよ、超意味わかんない」。これ、単に意味がわからない、という意味ではないように聞こえます。意訳すると、「理解し難い暴挙である」、「承諾しかねる」、あるいは「受け入れる価値もない」などとなりましょうか。「受け入れる価値もないほど滑稽である」といった排他的なニュアンスも感じます。昨今の十代、ことによっては二十代の人もよく使うもので、無意識の言い回しや口癖のようにすらなっています。これが実に興味深い。なにしろ、口癖で意味を問うているのです。意味を問うことが口癖にまでなっている、実に哲学的ではないですか。逆を言えば、情報の過多に考える能力が追いつかなくなり、目的や意味を思惟するための時間が枯渇し、意味を問うという行為が口癖レベルに退化している、という気もします。それでも、意味を問うのは良いこと、「なぜ」を考えるのは良いことです。磁石の授業でN極とS極を習い、同じ極同士は反発し異なる極は引き付け合うと教わったは良いが、「それはなぜですか?」と先生に問い続けて小学校を破門になった生徒がいました。後のアインシュタイン博士です。

 いずれにせよ、日本語好きではあります。やっぱり好きです。特に方言が好きですが、共通語も嫌いではありません。ただ、共通語に関して言えば、旗本の江戸弁に薩長土肥の緊張が混じり合い、格調高い漢語や文明開化の欧米言葉のスパイスが効いたような日本語、明治語(?)のようなものに憧れを感じます。「鶴瓶の家族に乾杯」というテレビ番組に、島根県雲南市にある「シミズ」という理容店のご隠居が映っておられた。卒寿の高齢ながら背筋のピンと伸びた紳士で、カメラの前で堂々と入れ歯を入れてからお話を始められた。この方、もともと鶴瓶師匠のことは好きでもなかったらしいのですが、実際に会ってみてその心遣いに感銘を受けられ、後日、達筆なペン字で日記にこう記されました。「笑福亭鶴瓶師来訪す。さすがに一寸ビックリ。さすが全国区の斯界(しかい)の権威、・・<中略>・・、一流人物と感一入(ひとしお)覚える。」・・・こういうしっかりした文章を書けるようになってみたいものです。が、なかなか、自分も半分ネット世代ですから、心して言葉と付き合って行くしかないだろうと思います。


日本語でフォークソングを書いてみた。
日本語でロックを演奏したいと思った。
広い海原にボートで漕ぎ出したような、
途方もないことだったなと後で思った。
それでも、いまだに櫓は捨てていない。
だらだらとただ風待ちしているだけだ。


--- 2016/6/24 Naoki

back index next