世界は何処にあるか


 「森のスタジオ号」(自家用車です)は、夜な夜な森に出かけてスタジオ代わりになるという生活から解放され、専ら通勤の足として、あるいは少年サッカーチームの機材車や送迎車として活躍中です。 また、遠くへ出張する際には、新幹線の代わりという大役もこなしています。 とはいえ、横浜から名古屋まで少なくとも3時間はかかりますから、ちょっと遅めの新幹線です。 ミニバンとワゴン車の合の子のような、緑のオバQのような車です。
 明け方の高速道路に乗っていると、しかしこのオバQは新幹線状態なわけですから、その前を走る車はまずいません。 「スポーツカー」というのは、十中八九格好だけの如何様野郎でして、オバQには大抵道を譲ることになります。 「十中八九」と申し上げたのは、稀に凄まじい輩がいるからで、例の「世界を『股』にかける男」がそれです。 「100km/h台に減速するとホッとしますね」という理解に苦しむコメントを覚えています。 想像してみれば、周りの車が後ろ向きに100km/h以上の猛スピードで飛んでくる中を縫いながら走るというのは、テレビゲームにしてもあまり気持ちのいい光景とは思えません。 しかし、大半は無駄なエンジンを乗せ、無意味な羽根飾りを背負って転がっているのが「スポーツカー」という輩ですね。 むしろ、商用車のような輩に速いのが多い。 急いでるんでしょうね。 このまえ見かけたバンは、荷車のような細いタイヤでふらつきながらも、いわゆる「最高速度」というやつで巡行していました。 さしものオバQも、こいつの前には出られなくて、只々無事を祈りつつお見送り申し上げたのでした。
 いずれにせよ、オバQはここのところずっと相棒役をこなしてくれています。 傷だらけで汚れ放題ですが、オプションというオプションを取り付けてディーラーから「見本に貸してくれ」と頼まれたほどのゴージャス野郎です。 三連装のMD、六連装のCD、AMラジオ、FMラジオ、TVと、オーディオ系は特に充実!(カセットテープが聞けないが...)のはずなんですが、人間というのはそういうもので、どうしても飽きが来たりします。 MDも飽きた、CDも飽きた、そうするとFM位しかミュージックソースはないわけですね。 ところが、FM放送というのは音はよろしいが、つまらない話を延々やっていたりするわけで、なんでわざわざFMで雑談しなけりゃならんのか理解に苦しむ。 そうかと思えば、相も変わらず米国の歌謡曲ばっかりダラダラやっているとか、そうなってくるとせっかくONしたスイッチを結局すぐにOFFすることになるわけです。
 二年近く前の話ですが、その日もONしたばかりのスイッチをOFFしようとしたら、アコースティックギターのレアな音がスルッと入ってきた。 「チェンジ・ザ・ワールド」というエリック・クラプトンの歌でした。 クラプトン氏のギターを最初に聞いたのは「クリーム」というブルースロックバンドで、「ヤードバーズ」の頃のR&Bでもなければ、「デレク&ドミノス」の頃のようなポップスでもなく、極めて刺激的な、当時でいうところの「プログレッシブ・ロック」でありました。 その後、期待を裏切られたり、感心させられたりいろいろありましたが、なんだかんだ言いながら聞いて育ったのでしょうね。 何億年ぶりかで「ベルボトム・ブルース」なんてのを聞くと、「あ、このサウンドは確かに自分の根底にある」と思い出してしまう。 中学生とか高校生の頃聞いていたサウンドというのは、否応なく自分に取り付いているものです。 それが良かったかどうだったかは別として、「聞く音楽を自分で選ぶ」ということの大切さを感じる根拠のひとつです。 「つまらない音楽に囲まれているとつまらない音楽家になってしまう」ように思います。
 さて、クラプトン氏の音楽がつまらないかどうかは知りません。 少なくとも、僕には我が青春のサウンドであり、ご子息を事故で亡くされてから後の音楽は逆に輝きを増しているかのようにさえ感じます。 そして、この「チェンジ・ザ・ワールド」は、アメリカン・トップ40の中にあって、掃き溜めに鶴といった印象の歌でありました。 「もしこの世界を変えることができたら僕の愛がどんなに素晴らしいか君に伝えることができたのに」というような歌詞と一緒に、この曲は抵抗なく自分にフィットして、弾き語りを始めようとしていた僕の絶好の練習曲になりました。 物心ついてから今日に至るまで、彼は僕に素晴らしい練習素材を与え続けてくれているのです。
 しかし僕は、練習しながら思いました。 ブリッジで繰り返される“If I could change the world.”というフレーズ、美しくてロマンチックだけど、無力感漂う悲痛なリフレインだな。 世界というものは変えられないのだろうか。 変わらないものを世界と信じてはいないだろうか。 幼い頃、「世界」を「地球」と同義に捕らえていた頃、それは自分が生を受ける以前から存在していた不変の球体であり、自分の小さな力でその一部を、例えば砂山を作るとかトンネルを掘るとかして弄ることはできても、そのものは微動だにしない大いなるもの、それが「世界」なのだと考えていたと思います。
 この「世界」が何なのかを考えていくと、面白いことに気がつきます。 例えば嬉しいとき、悲しいとき、この世界の見えようが変わります。 それは、世界の「見え方」が変わったのであり、「そのもの」は何も変わっていないと言ってしまうことだってできるでしょう。 この「世界そのもの」を調べるには、例えば科学のような客観的手段が必要なのであって、嬉しいとか悲しいなんて関係がないと。 にもかかわらず、その科学自身が、世界は観測者によって変わるのだということを唱えつつあります。
 世界が、様々な素粒子という「粒」の集まりからできていたとします。 すると、例えば今そこに電子が「ある」わけです。 ところが、今そこに電子が「ある」のはここに観測者が「いる」からなのです。 もう一人の観測者、この人は世界を「波」の集まりだと信じている人ですが、その人が同じ電子を見ても電子は今そこにはなくて、さっきあそこで「働いた」と言うでしょう。 こんな物理学の煩わしい話を持ち出すまでもなく、ある人にとって世界は狭く、ある人にとっては広く、またある人には暗黒で、ある人には栄光なのです。 そのときの自分の位置と働きによって、実は世界「そのもの」が変化していることに気がつきます。
 音楽というのは、まるで泡のような儚い世界を作る行為ですが、明らかにそのとき世界「そのもの」を生み出しています。 ですから僕は、歌や、本や、絵画に描かれているものが「非現実」で、マンホールの蓋や隣家の塀が「現実」とは思いません。 その隣家を訪れたとき、初めて壁が存在します。 つまり、そのときの位置と働きが、世界を形作っています。
 これに因んだこととして、大変印象深いことがあります。 キリスト教のある司祭(プロテスタントでは牧師と呼ばず司祭と呼ぶらしい)が幼子に、「お祖父ちゃんは何処へ行ったか知ってる?」と尋ねました。 「天国」と子供が答えました。 司祭は、「そうだね。じゃあ天国って何処にあるか知ってる?」と再び問いかけました。 子供は、暫く考えた後、どこか煮え切らない様子で、「空の上の方」と答えました。 子供は、大気圏がどういうものか、雲がどういう成分からなりどのように生まれるか、図鑑などを通してある程度理解していたからです。 すると司祭はにっこり笑い、幼子の胸をポンポンとたたいて、言いました。 「この中にあるんだよ」。

--- 10.Nov.1998 Naoki


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