テレビで、ジャンルカ・カシオーリという人のピアノリサイタルを見てしまいました。
「見てしまった」という印象です。
彼は若干20歳の青年で、演奏したのはドビュッシーの前奏曲。
「亜麻色の髪の乙女」などの小曲11編からなる近代クラシックの名曲です。
ところが、どうも自分には、初めて出会った新鮮な曲に思われました。
全くもって、違うのです。
いや、音符の組み合わせは一緒なのでしょうが、世界が独自なのです。
名のあるピアニストなのでしょうから、不案内なギタリスト崩れが改めて解説するのも笑止でしょうが、敢えて紹介させていただくと、彼は、とっても変です。
とっつぁん坊やのような風体をしています。
一応白い蝶ネクタイと燕尾服で正装しているのですが、貸衣装でしつらえてきたといった風情です。
眼鏡を掛けていて、痩せています。
少年のようでもあり、爺さんのようでもあります。
彼のピアノには、クラシックピアノの演奏会でよく見かける、ちょうど校長室の本棚に体よく並べられた百科事典のような、あの大きな楽譜は置かれていません。
もともとクラシックの人達が何故本番でも楽譜を離そうとしないのか、場合によっては捲り屋さんのような人まで従えていたりしますが、本当に見ないと演奏できないのか、はたまたライナスの毛布※脚注のような物なのか、僕にはよく理解できませんでした。
自らの意を唱えているという建前で、実はお役人が用意した原稿を読み上げている代議士先生みたいな、なんとも情けない光景に思ってしまうのは僕だけでしょうか。
カシオーリは楽譜を置いていませんでした。
楽譜を見る代わりに、彼は虚空を見ます。
瞼を閉じたり、鍵盤に視線を落とすこともありますが、専ら虚空に目をやります。
この仕草は、演奏中だけでなく、曲間にも現れます。
何をしているのかは、僕如きのみならず、会場の人達全員が理解していたでしょう。
彼は、場面を、情景を、空気を、その曲の世界を感じ、見据え、そして音に変えていきます。
従って、彼のピアノは、音というよりも、空間を奏でていました。
実に、非常に、どうしようもないほど僭越×荒唐無稽×笑止千万とは思いますが、このやりかたは、全くもって1997〜1998の Forest Song 弾き語りのやりかたです。
手法などという計算ずくのお話ではなくて、演奏力に雲泥の差こそあれ、同じスタンスで音楽に接していたことは確かです。
だから、僕はとても驚いたのです。
なんだか嬉しくなってしまったのです。
空間を携えた音楽、これは自分が最も信頼している音楽スタイルの一つです。
しかも、彼は変でした(クドいようですが)。
彼の手や指は、リヒテルやケンプといった往年の大ピアニストの力強いそれとは違って、女性的でしなやかでした。
そして、ピアノのことがよく分からない人間が言うのもなんですが、その指や手の使い方が変だったんです。
一つ一つの音について、それはピアノの音という以前に音そのものとしてのイメージがあって、それを奏でるために一見変な弾き方になるのでしょう。
このことは、音と音との、いわゆる行間にも顕著で、演劇的ですらありました。
以前、神奈川県民ホールでしたか、キース・ジャレットというピアニストのソロを見に行ったことがありました。
この人は、椅子から立ち上がって仰け反るように演奏するものですから、珍しい弾き方だなぁと感じた記憶があります。
が、カシオーリの場合はそういうものとはまた違います。
彼のその変な仕草の一つ一つは、一つ一つの表情豊かな音になって送信されるのです。
そよ風のように呟いていたかと思うと、きらりと反映し、ごそごそと這い回って、波のようにザンと砕ける。
印象派の絵画のようでもあり、写実主義的な映画を見ているようでもあります。
そういう演奏ですから、クラシックの名曲とはいえ、或る意味で全くの新作として感じられてしまったわけです。
極めつけは、アンコールで演奏された、かの有名なバッハの「トッカータとフーガニ短調」。
お笑いコントなんかで、何かヤバイという場面に「タリラ〜♪」と流れるあれです。
元々はパイプオルガンなんかで荘厳に演奏されるような曲ですが、それを誰かがピアノ用に編曲したものであろうと思います。
ところが、カシオーリがそういう個性の強い演奏をするものですから、メロディーから何から一見遠い関係にあるようなドビュッシーとバッハが自然に関連づけられてしまう。
まことにもって、感心させられてしまったのであります。
昨今は、オーディオ機器等々が発達を致しまして、優秀な先達の情報が簡単に手に入る。
例えば落語にしてみても、テープだMDだで繰り返し聞けますから、舞台袖で芸を盗んでいたころのお弟子さん達より、素人でも文楽・円生といったかつての名師匠そっくりに噺ができる人は少なくないんだそうです。
ジミ・ヘンドリックスより上手なギタリストは五万といるでしょうし、高校の文化祭でカーマイン・アピスのようなツーバスドラムを叩けてもとりわけ自慢にはならないでしょう。
しかしそれらはどれも二番煎じですから、肝心なところがどうも違う。
技術はあるのだけれど満たされない。
そういった或る意味で閉塞感漂う芸能の世界にあって、クラシックギターの村治佳織さんや今回のカシオーリ青年の演奏に出会ったりするものですから、何か新しい人達の中に、自分のような人間が勝ち得なかった或る種の熟成した何かが生まれているように思えて、世の中捨てたもんじゃないなという気持ちを新たにした次第です。