天才になろう
スポーツをやるにしても芸術的なことをやるにしても、基本というものがあって、それを学ばないことには上達も遅いし、第一まともなことができずに終わってしまうことにもなりかねません。
基本を学ぶには、先達に師事するのが一番の近道で、本やVTRなどと向かい合っていてもなかなか埒があかないものです。
では、とりあえず基本を身につけることに邁進すればよいのでしょうか。
本教室の主旨から言えば、基本は必要条件でも十分条件でもないということになります。
言葉を変えれば、基本ができたって音楽はできないよ、ということです。
優秀な人を「天才」という言葉で片付けてしまうことがよくありますね。
例えば、ディエゴ・マラドーナというサッカー選手がいます。
ペレが引退したあと、プラティニ、クライフ、ベッケンバウアー達と並び賞される、或いはそれ以上人気のあったスーパースターです。
この人は、ドリブルやパスをするとき、左足でしかボールをコントロールしません。
もちろん基本は両足で自由自在にボールコントロールすることです。
しかし、この片足ドリブラーは、W杯で伝説の5人抜きシュートを演じています。
人は彼を「天才マラドーナ」と呼びます。
これは天性なのだと。
「我々凡人は基本に忠実に努力をしなければならないが、彼は天才だからね」というわけです。
ここに大きな誤解と侮りがあるように思います。
あの片足ドリブルは、彼の独学という努力のたまものであろうと推察します。
スポーツ界のみならず、音楽の世界だってこれに似た事例が幾つもありますよね。
チョッパーベースだとかスラップベースというスタイルだって、元は一ベーシストの基本を逸脱したサムピッキングに端を発していると聞きます。
このような独創的な努力というものは、演奏のスタイルや技法に大きく影響するところですが、むしろそれだけでなく、発想という意味において、音楽そのものと深く関っているように感じます。
借り物ではなく、自分の言葉による表現のための訓練、それは基本を蔑ろにすることではなく、創造的な不安に立ち向かう努力のようなもので、天才とは即ち《本当に》努力する人のことなのではないでしょうか。
但しそれが盲目的な努力ではないという点が、いわゆる天才と呼ばれない人達と異なっていますね。
彼ら「天才(※正しい言葉ではない)」の努力には表現という目的があり、それは他人から伝授してもらうような代物ではないはずです。
逆に、盲目的な努力というのは、実は非常に安易でいい加減な行動だと言えます。
表現を根拠としない努力は、音楽以外のなんらかの目的、単なる自己正当化、ないしは気休めのための行動に他ならないでしょう。
受け売りでしかないものや努力の余地が在り余るほどの音楽を笑顔で聞いておられる方々は、良く言えば寛容、悪くいえば鈍感、いずれにしても音楽そのものにはあまり興味をお持ちでない方々であろうと推察します。
本教室に期待を寄せられる方は、敏感でなくてはなりません。
また努力家である必要があります。
「凡人」の言葉を借りれば「天才」であって頂かなくてはならないのです。
徹底的な独学のすえ必要に迫られて基本を学んだ方、英才教育を受けたあと独自の世界に突入して新境地を開いた方、独学が偶然或る種の基本を捉えていて問題なく創造的な活動を続けておられる方、いずれも「天才的」な方々ですね。
逆に、独学だがいい加減で形にならない方や、楽器だけ弾けるようになって誰かの真似をすることが音楽だと割切っておられる方などは考え物です。
言えることは、基本1に対して少なくとも10の独学が必要だということです。
もっと極端な言い方をすれば、基本がなくても音楽は生まれますが、独学なしに音楽は生まれません。
何故貴方が音楽をやるのか、やらずにおれないのか、もしくはやらねばならないのか、独学の努力は、音楽の動機そのものが導き出す試練です。
さて、抽象的な話になってしまって、なんだか分かる人にしか分からないような内容で申し訳ありません。
講師がお薦めしたいのは、独自の練習方法を編み出すこと。
知り合いのベーシストに、輪ゴムで指を縛ってスケール練習をするという変わり種がおりました。
見上げたやつです(効果のほどは分かりませんが)。
現在PUGSで元ピンクのオカノというベーシストは、スペースサーカスというバンドをやっていたころ、親指で五寸釘を打ちこむという練習をしていたと聞きます(真偽のほどは存じませんが)。
同じくPUGSのスティーブ衛藤は、1年間だけラテンパーカッションを習いに通っていましたが、後はどうも独学のようで、現在はグラインダーでトラックのバンパーを鳴らすという奏法を披露しています(ヒドイ音だが火花が飛び散って奇麗)。
まぁ人それぞれですが、どなたも天才君であると思いますよ。