ダークマター
そこに石ころが「ある」とはどういうことなのか、人が「いる」とはどういうことなのか、古今東西の人々が向き合ってきた問いかけです。
そういった問いかけに対して、宗教や哲学が深く関わってきたように、近代では科学が積極的な役割を果たしていますね。
門外漢ながら、科学的な切り口からのアプローチを覗いてみると、極端な話が、観測されないものは存在しないという命題に突き当たるのだそうです。
箱を開けるまで箱の中にはなにも存在しないというわけです。
更に言えば、観測されたものは必ずその姿を変えることになり、知り得なかった「無」を見ることはできないということになります。
上記のような、なんだか分かったような分からないような話は、極小の世界(つまり量子力学のような)や極大の世界(つまり宇宙物理学のような)では避けられない命題のようです。
その中間辺りで、直径0.009インチの弦が切れたといっては大騒ぎをしたり、重さ40キログラムのアンプを運ぶのに息を切らせてみたり、ライブハウスの控え室で毎秒1回程度の鼓動が若干早くなったり、次のライブを何ヶ月後にするか悩んでみたりしている我々には、一見どうでもいいようなことです。
しかし、この地球上に何十億という個人がいて自分と同じように喜び悩み暮らしているかと思うと、不思議な気がしませんか?
僕なんか、渋谷の雑踏の中にいるだけで不可解な気分になってしまいます。
ですから、自分の身近にいる人は、誠にもって不思議な連中です。
何年か前までは「存在」しなかった奴が、確かに今そこにいるわけです。
そして、望む望まざるに関わらず、試みる試みないに関わらず、お互いに影響し合っています。
いや、影響という言い方は正確ではないかも知れません。
お互いを変えている、あるいは育てているという表現のほうがしっくりきます。
逆に、どうやら存在するらしいというギリギリの存在、つまり噂の人物だとか、人伝話の登場人物だとか、伝言板のストレンジャーだとか、自分に影響を与えている人に影響を与えている自分以外の人物だとかについては、まことに認識が難しい。
整理できない。
しかし結果的には自分も影響を受けているわけです。
影響が大きければ大きいほど興味深く、そのうえ情報が少なければ少ないほど苛立ちを覚えるものです。
さて、物理学の方では、我々の宇宙がこのまま永遠に膨張を続けるのか、あるいはどこかで収縮に転じるのかということが議論され、それに関連する測定がいろいろと行われているようです。
鍵を握るのは宇宙の総質量で、或る一定量より少ないと膨張は止まらず、多いと収縮に転じることになります。
今知られている宇宙に存在するものの総質量は、残念ながらその一定量に及ばず、我々の宇宙は限りなく空っぽの状態に拡散し何も動かず何も生まれない暗黒の世界へと向かうことになります。
しかしながら、未知の存在があるらしいという観測もあり、それが事実であるのか、その正体がなんであるのかに多くの科学者達が注目しています。
僕は素人ですので直感的な空想だけしか論じることができませんが、空間それ自体に質量があるのではないでしょうか。
例えば、一般的な8畳間の部屋の中にはなんと重さ40kgもの空気が入っているそうですが、我々は空気の中にいるので、そんなことを思いもしませんし感じることもありません。
空間それ自体に質量があれば、有名なアインシュタインの宇宙項の問題や、注目されているダークマターについて理解する糸口になるかも知れません。
まあ、こんなことは、専門家達の間ではとうの昔に織り込み済みなのかも知れませんがね。
存在の地平をどれくらい大らかに持つことができるか、それはその人の内なる世界の大きさそのものといえそうですね。
我々は、未だ見ぬ人、生涯知り得ない人、どうやら存在するらしい人々と、どのようにつきあって行くべきでしょう。
参考文献: 佐治晴夫 著「宇宙の不思議」、竹内 均 監修「Newton別冊」、他
--- 9.Apr.1997 Naoki