マギーズファーム
高校生の頃、横浜の根岸というところに住んでいました。 目の前が日本最初の競馬場跡(後の米軍ゴルフ場、現在の根岸森林公園)で、その向こう側は米軍の駐屯地になっていました。 高校も運動場側から入るには、米軍エリアを横切って歩くことになります。 町の景観には、必ず金網というものがありました。 エリア内ではけっこう遊びました。 夜中にスイカ男とブランデーを煽って侵入し、鉄砲を持ったMP(軍警察)に追いかけられたこともあります。 映画館に忍び込んだこともあります。 スイカ男は米軍パイロットの奥さんとも「懇意」で、彼女はモルモン教徒かなんかでコーヒーも飲みませんでしたが、弟はマリワナを吸っていました。
その米軍が、もう十年ほども前のことになりますか、横須賀に移転しまして、横浜、殊に本牧の様相は一変しました。 早い話が、良きにつけ悪しきにつけ、普通の町になってきました。 本牧マイカルとかいうニチイの大店舗が出現し、ファミリーレストランがばたばたっと建ちました。 オリジナルファッションの店舗が軒を並べていた元町でさえ、いまやファーストフードの看板に景観を牛耳られています。
若くて健康的な女性達で賑わう元町のすぐ隣には、北に中華街、西に寿町という町があります。 寿町は、東京でいう山谷の規模を大きくしたような町で、港湾労働者達や住所不定無職の人達の集うところでした。 現在はどうかわかりませんが、当時は道路に寝ている人もいたので、車で通るのも怖いという印象がありました。
それら対称的な町の丁度境界線あたりに、「ミントンハウス」というジャズ喫茶がありました。 多分今でもあると思います。 カメラマンの菊池という人とオイドンと呼ばれる怪しいおじさんが始めた店で、スイカ男と二人で開店の手伝いをした思い出深い店です。 その後スイカ男は、一念発起して渡米するまでの数年間、ドストエフスキーの「地下室の手記」の主人公よろしく、その昼尚暗き洞窟にこもるようになります。
その洞窟の仲間達の一人かトモ君(以下、木原さん)という、頭脳明晰で、小柄ながらスポーツ万能の、当時二十代半ばくらいの人でした。 慶応大学の経済学部を1年で中退した後、フリージャズ評論家の間章さんに師事したこの人は、何事につけても行動的で、我々青二才の憧れの的といった感じでした。 ミントンハウス開店の後、この人は石川町駅の近くにあった風林堂とかいう雀荘のマスターになって八九三相手の商売を始め、やがて店を乗っ取ってロック喫茶に変えてしまいました。 「マギーズファーム」という屋号だったと思います。 確か、ボブ・ディランの歌の題名から採ったとか言ってました。
黒壁にスポットライトというジャズ喫茶とは異なり、店内は白木の壁、卓、椅子で統一され、観葉植物が置かれ、ダーツの的が掛けられました。 ダーツは飾りではなく、開店の2年後くらいには、全日本大会の優勝者を輩出するまでになりました。 ジャズ喫茶とは異なり、いつも常連が集い、みんなでわいわいやったり、遊びに行く算段をつけたりしていました。 始めて来た人、特にシャイな日本男子には馴染みにくく、遊び人のお兄さんや、危なそうなおじさんや、フェリスのお嬢様や、シェリーだとかパールだとかエイミーだとかいう米軍系の女の子達が占領していました。 米軍系の女の子達というのは、ハーフだったりして綺麗なんですが、町で歩いているところを見つかったりすると、大声で「ヘーイなおきぃ!今日ウンコしたぁ?」などと挨拶してくれる困った奴らでした。
僕は、明るい彼女たちは苦手で、専ら木原さんに付いて回っては、何か面白い話を聞き出そうとしていました。 ロックのこと、ジャズのこと、現代音楽のこと、彼は知識の宝庫であるだけでなく、数々の示唆に富んだ助言を与えてくれる人でした。 彼は一度も僕の演奏を聴いてくれたことがないと思いますが、けっこう気に入られていたのではないかと思います。 「冬なのに下駄、スキーもしないのにダウンベスト、君は個性的でいいね」と褒めて(?)もらったこともあります。
しかし、常連が占領してしまうそういったロック喫茶は、やがて経済的に困窮し、数年で閉店する運命にありました。 木原さんは、多分、そんなことは折り込み済みであったのだろうという気がします。 その、儚いが一瞬に開花したマギーズファームに身を置いたことで、僕の体の奥深くには、いまでもチリチリと燻っているものがあります。
--- 29.Apr.1997 Naoki
間章氏の著書(いま分かる範囲です)
僕はランチにでかける
ISBN-4-7601-0885-8
柏書房
この旅には終りはない
ISBN-4-7601-0884-X
柏書房
非時と廃墟そして鏡
ISBN (不明)
深夜叢書社
追記改訂 --- 5.Jan.1999 Naoki