神話


 ここ2ヶ月余りで7キロほど痩せてしまいました。 まあ、今位がベストウェイトではあるのですが、なんだかギスギスしてきます。 元々人付き合いが下手なのですが、仕事場も、友人関係も、家庭もうまくいきません。 普段穏和な人も、僕の周りにいるとキツい人格に変貌するようです。 自分自身もまた、見ず知らずの人に怒鳴りつけたり、喧嘩を売ったり、ちょっと危ない奴になっています。 自分の嫌な部分が噴出している分、体重が軽くなって来ているのかもしれません。
 とにかく何とかしなきゃいけないと思い、弾き語りを始めたり、少年サッカークラブのコーチをしたり、海水浴や昆虫採集の仲間を募ったりしています。 どれも夢中になれることばかりです。 が、ふと動きが停まると、今までにはなかったような孤独感に取り囲まれます。 夕暮れ時に立ち並ぶ街灯を見ているだけで、これが見納めではないかという感慨が滲んできたりします。 こういった馬鹿げた状態というのは、一体何なんでしょうか。 例えば一種の心の病かも知れません。
 プータロウ生活を脱して一念発起、勤め人に転向したのは十年ほど前でした。 ライフワークと思っていた音楽に別れを告げたつもりはありませんでしたが、ある種の閉塞感に苛まれていたように思います。 そのころ「パラシュート」という曲を書きました。 いつかは着陸する運命にあるとしても、パラシュートが開かなくてどんどん加速してしまうという、モラトリアム人間の世界観のような歌です。 同時期に「タイムラグ」という曲も書きました。 まるで一所に滞っているかのような永遠の自分の時間(現在)と確実に遷移する外界の時間(実時間)とのずれを感じながら過去と未来を繋ぎ止めようとしている、なんだか漠然としていてかつ身につまされるような歌です。 こういった気分、いわば根拠のない絶望感のようなものは、しかし随分と余裕を持って客観視できるものでした。 まだ“未来”のある風景だったのです。
 自分を取り戻せると思えるようになった頃には、「フェリーボート」や「イイ日ワルイ日」といった、いわば夢のある曲が書けるようになりました。 “女神”の祝福を得た“ちっぽけな旅人”は、いつも可能性の“白い卵”を持って“向こう岸”への航海を続けることができたわけです。 この神話が崩れたとき、旅人は新たな、今まで経験したことのない絶望の海に放り込まれます。
 人は、そうそう刹那的に生きられるものではありません。 人生も折り返し地点を過ぎると、遅かれ早かれ、多かれ少なかれ、我何処より来たりて何処へぞ行かんということを意識し始めるようです。 そのとき最も恐ろしいのが絶望感です。 絶望は、真実のような顔をしながら、決まって誤った方向に人を導きます。 ですから神話を捨てるわけにいきません。 神話を失うと人は生きられません。

--- 06.Jul.1997 Naoki


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