ラーメン女の怪
子供のころ、親父の勤めていた大阪は天満の研究所に一度だけ訪れたことがあります。 何の研究所だったのか、白衣を着たおじさん達がいたような、所長さんのような人に紹介されたような、パイプの這い回るSF映画めいた廊下があったような、怪しげな箱にマッシュルーム然としたキノコが培養されていたような、どうもそんなような気がします。 何せ一度きりでしたから、記憶は曖昧です。
一方、母親の勤めていた奈良女子大には何度も行きましたからよく覚えています。 姉と僕が幼かった頃、夏休みなどは時々は祖母や叔母が面倒をみにきてくれましたが、そうでないときは日がな留守番ということになってしまいますから、母親が職場に連れて行ったりしたわけですね。 女子大には木々が緑々と茂り、今は鉄筋になってしまったようですが、当時は明治に建てられた洋館風の学舎が建ち並ぶ美しくて静かなキャンパスでした。 キャンパスは塀で囲まれており、門には守衛のおっちゃんがいましたから、子供を放し飼いにしておくにはもってこいだったであろうと思います。
僕は、キャンパスに立つ大きなネムリギや、学舎の薄暗い廊下とワックスの臭い、それに実験室の其処此処にある曲がりくねったガラスの試験器が好きでした。 しかし、研究室の面々に紹介されたり挨拶をしたりするのは苦手でした。 「まぁカワイイ」などと囃されるのは、照れ臭く、窮屈でした。 女学生達に抱いている印象は、
細かいアコーディオンのようなひだの入った黒っぽいスカート
※脚注
(何か呼び名があるのでしょうが)で、当時は全員それでした。 小さな子供でしたから、目の高さにはそのアコーディオンのスカートが忙しげに歩き回っているわけで、残念ながら誰一人お顔の印象が残っていません。 アコーディオンが集まって可愛い可愛いと誉めてくれてもどうリアクションをとっていいか分かりませんから、大抵は研究室の外へ遊びにいくわけです。
緑の多いキャンパスでしたから、夏ともなれば蝉時雨です。 セミの王様はというと、関東以北では珍しいと思いますが、クマゼミという大きなセミでした。 背は黒く羽根は透明、胸の響板は濃いオレンジ色をしており、力強く、声も大きなセミです。 奈良盆地には此奴がけっこう沢山いて、朝方から昼前まで「グワッシ!グワッシ!ガシガシガシ!」と夏を一層熱くしてやろうというような声で鳴きます。 女子大には、何の木でしたかね、このクマゼミが鈴なりにとまっている木がありました。 虫の嫌いな方なら仰け反って仰向けに倒れてしまいそうなくらいの鈴なりで、幹や枝を埋め尽くさんばかりに集い、前足で隣のセミと陣取り争いをやっちゃ「ビツ!」とか不平を漏らしたりしておるわけです。 堂々としていて、近づいてもなかなか逃げないため、右手と左手で同時に二匹捕まえることも難しくありませんでした。
とはいえ、一番捕れたのは、やっぱりアブラゼミ。 どっちを向いてもアブラゼミ、鳴いてる奴、休んでる奴、飛んでる奴、落ちてる奴、日本全国セミといえばアブラゼミですね。 けれど、外国では「鳴く蝉」それ自体珍しいのだそうです。 逆に「鳴かない蝉」に相当するハゴロモの仲間は、東南アジアには色彩々のものが何種類もいるのだそうですが、日本には二種類ほどしかいません。 外国じゃ不透明な羽根を持つアブラゼミは更に珍しいらしく、道端に落ちている羽根を後生大事に持ち帰る昆虫学者さえいるそうですが、女子大では手掴みで山盛り捕れたもんです。 だから、そのうち飽きてしまって捕らなくなりましたね。
高嶺の花だったのは、ミンミンゼミです。 当時は見つけにくい、声はすれども姿は見えずといった輩で、木の比較的高いところにとまっているうえ、機敏なため、素手では捕まえにくいセミでした。 背も腹もエメラルドグリーンの美しい躰で、額に三つのルビーのような真紅の副眼を持ち、セミの女王といった風格がありました。 昨今は、河岸工事や道路舗装の影響か、土壌が昔より乾燥して来たらしく、ミンミンゼミは多数派となり、ごく当たり前に見られた湿地性のニイニイゼミが少なくなったように感じます。
ニイニイゼミは躰の小さな可愛らしいセミです。 羽根はアブラゼミ同様に不透明で、迷彩服めいた保護色になっています。 アブラゼミは、油で揚げ物をするときのような「ジージー」という鳴き声からきた名前だそうですが、ニイニイゼミも鳴き声から付けられた呼び名でしょう。 しかし、何匹かの声が合わさると、「ニイニイ」というよりむしろ「シャーーー」という真夏の日光を音にしたような眩しげな声になります。 この声は、夏休みで誰もいない白昼の校庭だとか、朝プールに行った日の帰り道なんてものを自動的に思い出させます。
鳴き声の面白いのは、やはりツクツクボウシでしょう。 小さな躰を仰け反らせるようにしながら大きな声で一生懸命鳴きます。 彼らのように複雑な鳴き方をする虫は珍しいようです。 どういう事情があってああいう難しい鳴き方をするのかは知りませんが、「ツクツクボウシ」とは鳴いていないように聞こえます。 ディクテーションしてみるとですね、「オーシー…ツクツクツクオーシーツクツクツクオーシーツクツクツクオーシーツクツクツクオーシーツクツクツクウィーヨーツクツクツクウィーヨーツクツクツクウィーヨーツクツクツクウィーヨーツクツクツクウィーー」といったパターンが多いように思われます。 「ツクツク」ではなく、「オーシー」というのが主語のようです。 が、途中から「オーシー」に代わって「ウィーヨー」という人物が登場します。 この「オーシー」と「ウィーヨー」の関係については未だ謎に包まれているのですが、いずれにせよ何か意味ありげなことを言っています。 彼らは、真夏というよりむしろ秋口に鳴き始める連中で、また関東の方が多く見られるような気がします。
鳴き声で一番好きだったのは、やはりヒグラシですね。 その名の通り、暑い夏の日の終わり、日暮れ近くに物寂しげな声で涼を呼びます。 が、実は明け方にも鳴いてたりするんですね。 セミは、ヒグラシ→クマゼミ→ニイニイゼミ→アブラゼミ→ヒグラシというように、各々の時間帯に次々と鳴いて夏の一日を演出していました。 ですから、横浜の根岸のマンションに越してきたときは驚きました。 駐車場の水銀灯や街灯の明かりのせいで、夜でもセミが鳴くのです。 それも、日昼とは違い、何か鳴き方が変なのです。 いや、変に感じられただけかも知れませんが、最初はセミの声だと分からず、一体なんだろうと窓を開けて外を見た記憶があります。 夜鳴くセミ、今では当たり前のようになってしまいましたが、昔は異様に思えたものです。
急変する人工環境に適応しようとする動物達の都市化は、或る面では逞しく、また或る面では痛々しく映りますね。 都市化動物に共通の特徴は、黒色化、もしくは無彩色化であるように思います。 カラスが黒いのは昔からでしょうが、しかしカラスの仲間には極彩色の羽根を持つ者もいるようで、そういう連中は都会には住まない。 都会に住む鳥、虫、小動物は、自然淘汰かもしれませんが灰色や黒のものが多いですね。 アスファルトやコンクリートに対する保護色になっているのかも知れません。 美しい自然に包まれた脈々とした営みがあってこそ、保護色にせよ警戒色にせよ、動物達は美しい衣装を身に纏うことができるのだろうと思います。
さて、奈良女子大に話を戻しましょう。 この大学の学舎は子供心にも美しい建物でしたが、老朽化のため、その殆どを鉄筋コンクリートの新学舎に建て替えてしまいました。 ちょうど横浜に引っ越して間もない頃であったと思います。 引っ越した後も、母は暫くこの大学の研究室に通っておりました。 姉が大学受験のとき、新学舎は既に完成し、きっと出来たてのモダンな研究室であったのだろうと思いますが、惜しむらくは電話が引かれていなかったようです。 事務所に娘の受験結果を知らせる電話が入ったと聞いた母は、研究室を飛び出し、廊下を走り、大きなガラスの扉を跳ね開けて外に飛び出そうとしました。 事件が起こったのはその時です。 母が扉と思って突っ込んだところ、それは扉ではなく強化ガラスの壁だったのです。 母は、なんと野球の硬球をぶつけても割れないという厚い強化ガラスを割り、割れたガラスの穴を跨いだ格好で仁王立ちしていたところを発見されました。 全治二ヶ月はかかったでしょうか。 気を失って倒れていたら惨事になるところでした。
僕は、強化ガラスをぶち割って立っていた母の猛烈パワーには感服しましたが、そういう建物の無神経さが腹立たしくてなりませんでした。 確かに、コンクリートや強化ガラスの建物の方が、木造の洋館よりも「機能的に」優れた面を多く持ち合わせているのであろうことは承知しています。 しかし、美しいと思ったことが殆どありません。 それは、色やデザインがどうこうということもありましょうが、温もりの無さというか、配慮の無さというか、そう、一言で言えばいたわりの無さですかね、そういうものが美意識を遠ざけているのではないかと思います。 東京都庁やランドマークタワーでさえ、もし僕がゴジラであったら格好の餌食です。
現在、奈良女子大はどんな風になっておるのでしょう。 子供の頃と違い、今進入したら守衛のおっちゃんに取り押さえられてしまうのでしょうけれど、子供にとっては或る種の遊園地でした。 僕が一番印象深かったのは、秋の文化祭です。 木々の緑は深く、美しい学舎は弾幕や花飾りで更にドレスアップし、アコーディオンのスカートは歓喜に膨らみ、日の光は集う人の笑顔に反射し、物心付いたばかりの自分には夢のような光景として記憶されています。 母の実験室の学生が主催した「アラカルト」(←よく覚えてるなぁ)というレストランに連れて行かれ、「何か食べて待っててね」とガリ版刷りの食券を渡され、生まれて初めてマカロニグラタンというものを口にしました。 僕は牛乳はおろかチーズなぞ死んでも口にできないガキンチョでしたが、その美味しかったのなんの。 依頼この歳になるまで、それを凌ぐグラタンに出会ったことがありません。 大人になってよく口にするのは、ピチャピチャのホワイトソースの中をマカロニが泳ぎ、上にネチョッとしたモッツァレラチーズが寝そべっているといった類ですが、「アラカルト」のそれは、ふんだんにパン粉が塗され、コンガリ焦げ目がついていて、香ばしく、暖かく、サクッとしてトロッとした至福のグラタンでありました。
僕は、大学生の頃、縁あって幾つかの女子大の文化祭にお邪魔をしたことがあります。 しかし、残念なことに、あまり印象がありません。 唯一心に残っているのは、学習院女子短期大学です。 ここは早大理工学部キャンパスの真向かいにあり、高等部と一緒に煉瓦塀で囲まれた禁断の空間で、本部キャンパスへの近道にはこれを突っ切るのが一番なのですが、門の前をウロウロしているだけでも怒るこわ〜い守衛さんに守られていたため、中を覗くこともままならぬ秘境の学校でした。 後にも先にも一度だけ、文化祭でその聖地を踏むことができたわけで、キャンパスの明るさ、女学生達の清楚さといったものに、昔の奈良女子大を連想させる何かがありました。 決定的に違うのは、学舎がコンクリートであること。 しかし、何となくタイムスリップしたような既視感を覚えたものです。 占いの部屋で清純そうな女学生達(←実際本当にそういう感じの娘さんばかりだったんですよ)に囲まれて、良ろしげなことをいっぱい言われ、ずいぶんといい思いをさせてもらったことを記憶しています。 これであの辛辣な守衛翁の無礼は割り引いてあげてもいいかなと感じた程です。
それにしても女子大というのは、よくよく考えてみれば不可解な集団です。 男子大というのは聞いたことがないですからね。 多分、津田梅子さんでしたっけ、そういった先達が思うところあって創立された時代背景だとか社会背景だとかいうものがあったのだろうと推察しますが、現在はどういう思想の下にそういう組織が残っているのでしょう。 僕はずっと共学畑で来ましたが、男子校とかだったら絶対登校拒否児童になっていたと思いますよ。 可愛い女の子と話ができるのも学校の魅力の一つでしたからね。 それが、高校三年生のとき理数系のコースを選択した辺りからおかしくなって来た。 当時は1クラス40名くらいの生徒がいましたけれど、我らのクラスには七美女というのがいましてね、要するに7人しかいないわけです。 それが大学に入ると、クラス約100名中に初年度は1人、次年度(←留年しましたから)はナシ、次々年度(←何回留年したんや)は2人という具合で、それがためにというわけでもないのですが、理工学部キャンパスには滅多に行かなくなりましたね。
当時の早大理工学部は、「新大久保専門学校」の渾名を持つ、およそ早大とは思えないところで、本部でストライキがあろうと文化祭があろうと我関せずという独立国家的学部でした。 現在は知りませんが、当時はコンクリート剥き出しのゴツゴツとした建物が並び、建設当時は東洋一高かったという18階建ての高層ビルは地盤沈下で傾き、唯一心和ませるはずの池は真四角のセメントで原子炉を連想させ、暫くそこにいるだけで何だかおーかーしーくなってしまいそうな風情のキャンパスでした。 「何言ってんのよ、勉強が嫌いなだけでしょ」と批判するガールフレンドを連れて行ったところ、「わかる気がする...」という感想を漏らしていたのを覚えています。
加えて女子の姿が殆どないというのは、やはり何とも殺伐とした、古い大阪弁で言えば「コツついていかん」ような状態なわけです。 そこにいると、男なら誰しも「理工病」というのにかかる。 即ち、スカートでも履いていようものなら、女性でもオカマでも犬でも猫でもみんな美人に見えてしまうという心の病です。 現在はそんなことはないでしょうが、ですから当時の理工学部の女学生達はスター気取りでした。 良きにつけ悪しきにつけ、僕の知っていた女子高生達は大学生と異なり、押し並べて男子よりも真面目で、ノートなどをきちんととっているのであてにされていましたし、ボーイフレンドに勉強を教えてあげたりする光景もよく見かけたものです。 ところが、理工女は逆。 器量がどうあれ、必ず取り巻きの下男が数人付いてまわりますから、試験の情報なんてそいつらに任せておけばいい。 どの娘も集団の中央にいて、肩で風を切っておりました。
理工学部キャンパスで唯一自慢できたのは、学食です。 だだっ広い食堂と小さなレストランに分かれておりましたが、この食堂の方には定食コーナー、軽食コーナーなどに加え、トンカツ屋や寿司屋までもが出店していたんです。 けっこう美味いし、案外飽きない、そして何よりも安い、ここで食べることだけがキャンパスの楽しみでありました。 しかし12時を合図に一斉に学生が雪崩れ込みますから、昼食時には一種の養鶏場状態です。 しかもセルフサービスのお膳を持って狭いテーブルの間を蟹歩きで運ぶ連中の尻に後頭部を押されながら食すことになりますから、僕はそれがいやで、その日も例によって授業をサボタージュし、午後3時頃でしたか、ガランとした食堂で一人焼肉定食を食べていました。
そこに白衣の女性が入って来たんです。 理工女には、はっきりと異なる二種の生息が確認されています。 一種は派手な服装に厚化粧が過ぎて色見本のような姿になっている輩、もう一種はリップクリームくらい塗ったらどうかというメチャクチャ素っぴんというか女捨ててます風の輩です。 中庸がないんですね。 白衣の娘は後者、近視の人が眼鏡を外したときよくやる鼻の上を摘まんで眉を顰める仕草、愛敬のない風体、紛れもなく理工女で、おそらく午後の実験途中で遅い昼食をとりに来た化学科もしくは応用化学科の学生でしょう。 僕は、失敬とは知りながら、しかし暇でしたから、遠目にマジマジと彼女を観察していました。 典型的な理工女だ。 でも、よく見れば捨てたもんじゃない。 もしかしたら、紅を引いてイヤリングでもぶら下げれば、本部キャンパスを歩いてたって一人や二人振り返るくらいの器量好しではないのか、そんな風に思えて来ました。
僕は、焼肉定食を食べながら、その白衣の娘を目で追っていました。 お、ラーメンを注文したか。 彼女はそれをお盆に乗せ、歩いて来ました。 おやおや、どんどんこっちにやって来る。 そして、どうしたことか、とうとう僕の目の前の席に着いてしまったのです。 ガランとした中に二人だけ、空席だらけの食堂で、何故わざわざ見知らぬ貧相な学生の目前で食べる必要があるでしょうか。 何か話しかけようとか、そういう意思があって座ったのだと思いました。 今日はラッキーな日かも知れない。
彼女は、しかし、すぐに箸を取ると、無心にラーメンを食べ始めました。 こちらから話しかけられるのを待っているのだろうか、では何を話せばいいのだろうか、僕は悩みました。 こう見えても僕は(知人は誰もそう言ってくれないでしょうが)内気な青年でしたから、只々時だけが流れ、彼女の方が先に食べ終えてしまいました。 何も話しかけられなかった。 けれど、理工女にもこういう可愛い娘がいるということを知っただけでも良かったのかな、などと考えていると、彼女は懐中から白いハンカチーフを取り出しました。 一気にラーメンを食べたので、可愛いもんだ、額の汗でも拭くのかなと見ていると、食事をしている僕の目の前で、しかもハンカチで、「ビーーーッ!」と鼻をかんだのです。 そして、何事も無かったかのように立ち去りました。
後に、フランス人なんかがハンカチで鼻をかむとかかまないとかいう話を聞いたので、彼女は帰国子女だったのかも知れませんね。 はたまた、邪推ですが、彼女は女学校出身者であったかも知れない。 異性と隔離されることで、必要以上に異性を意識するようになる人達もいるでしょうが、逆に全く無頓着になってしまう人達だっているのではないでしょうか。 それにしても、要するに僕の存在が全く目に入っていなかったのか、すごい近視か、はたまた自意識をどこかに捨てて来たのか、このラーメン女の怪は強く脳裏に刻まれ、女性観の根幹を揺るがし、以降二十年近く心の底流に漂っているのであります。
こういう惨澹たる理工学部に比べ、文学部キャンパスや本部キャンパスは、いわゆる「共学」な雰囲気で、「かくあるべし」だよなぁと感じておりました。 僕がわざわざ商学部にあった音楽の部活に入った理由は、多分それです。 部員の半分、或いはそれ以上が女学生でした。 いくらなんでも多過ぎると思っていたら、その大半は女子大から越境している連中でした。 近くのポンジョ(日本女子大)、トンジョ(東京女子大)、共立、白百合、跡見、遠いところでフェリス、珍しいところで御茶ノ水、その他諸々、実に多方面から来ているのには驚きました。 確かに早稲田の部活は慶応に勝るとも劣らぬほど人気がありましたから、敢えて越境ということであったのかも知れませんが、半分は婿探しのようなことだったのかも知れません。 考えてみれば、今の女房は慶応でしたが、途中からわざわざその部活に移って来たところを見ると、如才ない女学生達には多かれ少なかれそういう計算があったのでしょう。 かく言う自分も、共学の方が良いと感じるのは、それに似た感情があったからに違いありません。
いや共学じゃない、ただの女好きではないのかとご指摘の方がおられるかも知れませんね。 ところが、どうやら自分は女好きではなく、共学好きだということを自覚したことがあります。 部活の一環に、女子大の軽音楽部のようなところに派遣コーチを出すという企画がありましてね、シンガーソングライターのイルカさんの旦那がこの部活のOBのはずですが、どうもこの派遣コーチ先の一つがジョシビ(女子美術大学)であった辺りに縁があったようです。 そのもう一つの派遣先に、トーヨー(東洋女子短期大学)というのがありました。 コーチをしていた先輩が何故か「失踪」してしまったという理由で、急遽僕が代役を勤めることになったのです。 先輩が「失踪」した理由を僕はそこで知ることになります。
胸躍らせて出かけた派遣先は、いやはや美女の花園というか、まぁこんなんでイイのかしらと頬染まるような世界でした。 ところがそれは最初の数分間、だんだんと見えて来たのは、この女子短大という(自分から見れば)特種集団のオソロシサ。 うまく説明できないかも知れませんが、例えば二年生をからかってみる。 一年生が不覚にも「プッ」と吹き出してしまう。 その後の辛辣な雰囲気、気まずさといったらないのです。 僕は、彼女たちを合宿にまで「引率」して行きました。 友達から「いいなぁ」などと妬っかまれましたが、本人は既に憂鬱でした。
ギターアンプやPA設備といった大物は、やはり男手で搬出搬入、か弱いお嬢様方のお手を汚して頂く雰囲気ではありません。 実際は僕より彼女たちの腕っぷしの方が...まぁ、それは良しとしましょうか。 いくつかのバンドがあって、それを「均等」に見て感想を述べるわけですが、やっぱり短時間では何も伝えられない。 そこで、就寝前に一年生数人を部屋に呼んで、事細かに説明してあげたことがあります。 自分の説明を一心不乱に聞いている彼女たちの澄んだ目を見ていて、僕は初めて、やりがいのあることだ、自分は役に立っているのだという気になりました。 が、その後一騒動です。 二年生からクレーム。 何故私たちを差し置いて、「一年生とはあまり仲良くしないでください」とまで叱られてしまって、全く以って気まずいことに。
そんなこんなの気疲れ体疲れで、僕はなんだかフラフラになりましたが、取り敢えず御役目は果たさなくてはならない。 すると翌朝、次々と風邪で倒れる者が現れました。 そこで「橋本コーチ」は彼女たち数人をお医者さんまで「引率」することに。 なんという重労働だと待合室で項垂れていると、看護婦さんから「貴方も顔色が悪いですね。ちょっと検温してみてください」と勧められ、「9度8分ありますよ!診察室に入りなさい!」と叱られる始末。 友達から「いいなぁ」などと妬っかまれた桃源郷の合宿は、想像通りというべきか、辛い数日間と相なりました。 その後、僕が「失踪」したのは言うまでもありません。
してみると、僕はどうも女性そのものは苦手というか、馬が合わないタイプの醜男であるようです。 モテる男というのは、兎に角普く女性に「優しい」。 あれが僕にはできないんですね。 僕が好きになった女性というのは、何か一芸に秀でた存在感のある方ばかりで、どちらかというと親友といった雰囲気の関係ばかりでしたから、「優しく」したり「引率」したりはしない。 そういう女性たちは、「自分は女だから」とか「これは男の仕事だから」という発想を滅多にしませんから、或る意味で男勝りの毅然とした連中です。 いわゆる女性然とした女性、女子大然とした女子大は、良し悪しは別として、少なくとも自分の苦手とするところのようです。 これは一醜男の趣味の話のようではありますが、しかしながら一種の社会的理想論という穿った見方をして頂くのも一興ではないでしょうか。
セミは、雄が鳴き、雌が飛んで来て子孫を残すというスタイルを持っています。 儚い連中で、数年間を地中で暮らし、或る夏羽化してほんの数日、これをやって今生とバイバイする運命です。 ところが、何十年の寿命を持つ人間様も、これに似たことをやりますね。 若い衆の歌舞音曲は蝉時雨的趣の顕なものが大半で、如何に自分がかっこ良いかということのアピールに終始します。 女の子がそれに飛んで来る。 ライブをやっちゃ「打ち上げ」と称して女の子を引っかけることに躍起になっているお兄さん方もいますし、またそれに首を出して杓なんぞをしている自尊心のないお姉さん方もいるわけで、大抵この手の連中の「音楽」は気の利かない夜蝉の戯言のようなものです。 そもそも「打ち上げ」なんてのは、千秋楽の日に仲間を労う宴のための言葉で、仲間内の馴れ合いを避けるためにそれすらやらない人達もいる。 しかし、この打ち上げが楽しみで「ライブ活動」をやっているバンドだの音楽同好会の類がどうやら数的主流のようで、音楽不毛の時代の一端はここら辺りにもありそうです。 まぁ、百歩譲ってそれも良しとしましょう。 ところが、このテの男衆女衆が作り出している刹那的な社会は、あまりにどうも古典的過ぎて、邁進すべき人間社会像と思えないのです。
僕は、女性が進化すべきだと思います。 男性が勝れていると言っているわけではありません。 軽薄な歌舞音曲にすら女性たちが飛んで来るのには訳があろうと思います。 子孫を残すという大役を体に担って生まれて来ているからです。 儚い夏に命がけで鳴くセミになら、それは必要不可欠なことでしょう。 しかし、人間です。 人間は言語、そして多少の時間と思考能力を授かっています。 人間の女性もそうであるはずです。 女性が、与えられた環境だけを信じ、子育てや家事労働だけのために一生を捧げる生活は古典的ですが、そういう仕分け(←人によっては差別という言葉を使いますね)は今後も必要なのでしょうか。 腰掛けOL問題(←会社社会では真剣に問題なのです)は、社会制度や行政の怠慢が原因かも知れません。 しかし、これを打開し、女性がより自尊心のある人間生活を送るためには、男性社会を批判する前に、女性自身が自己改革する必要があろうかと思います。 簡単に言えば、馬鹿オヤジ共に罵声を浴びせる前に、今の腰掛けOLや茶髪女子高生が自己改革する必要があるということですね。 女性は、今の男性社会から疎外されることで、逆に男性にはない美意識を獲得していると思います。 例えば、男性は社会に順応するために、集団化し、没個性化し、都市化し、黒色化してきた帰来がありますけれど、女性にはまだ個性を尊重する傾向や文化的な「色彩感覚」が残されているように思います。 ですから、元来は衆目に媚びない存在であるはずの女性が、都市化し、群れ、均一化していく、つまり男性の後を追うような進化は望みません。 女性には、また違った、僕如きには予測できないような進化ができると思うのです。
とか何とか言いながら、うちの女房も大学図書館に勤めておりまして、毎朝早く遠路東京まで通っていますが、僕が生来怠け者であるため、家事は殆ど一人で切り盛りしています。 むかし「男と女じゃ男が悪い。悪いね〜男は。」というウイスキーのCMがありましたが、僕がまさにその手の不真面目な男であるため、女性の進化云々を語れる立場には実はないのですね。 だからというわけでもありませんが、遅蒔きながらこの度、乾燥機と食器洗い機をプレゼントしたのであります。 これで少しは楽になるだろう。 「まぁ、ありがとう」と早速洗濯物を乾燥機で掻き回し、ピカピカの食器洗い機を起動した途端、「バチン!」とブレーカーが落ちました。
--- 3.Jul.1998 Naoki
細かいアコーディオンのようなひだの入った黒っぽいスカート
※本文
…
「プリーツスカート」というんですね。 つい最近、下北沢の商店街で見かけました。 あそこは雑然としていて面白いですね。
改訂 --- 29.Oct.1998 Naoki