サッカーの意志
先日、サッカーの4級審判の資格を戴いて参りました。
1500m走らされました。
それがどうしたとおっしゃる方もいらっしゃいましょうが、過去3名ほどお亡くなりになっているそうです。
特に徹夜勤務開けの方だとか、過労気味の方だとか、普段体力に自信のあるスポーツマンタイプの方なんかが却って危ないそうです。
僕はスポーツマンタイプではありませんが、とりあえずポックリいかないように気を付けようと思いました。
走り出してみると、確かにすぐ息が苦しくなって、否が応でも想像よりペースダウンしてしまいました。
悔しいのは、その横を女子大生風の姉さん方がすんなりと抜いていくことです。
こっちが目を三角にして喘ぎながら命懸けで藻掻いているというのに、「今日カラオケいくぅ?」ってなお喋りしながら走っているわけです。
実に情けない思いがしました。
女に負けて悔しいなんて子供じみた感慨かもしれませんね。
サッカーのペナルティーでお馴染みの「非紳士的行為」は「反スポーツ的行為」に改名されてしまいました。
女性だってサッカーするんだもんね。
それだったら「非淑女的行為」というのを作ればいいじゃないかとも思うんですが、そうするとなにか意味が広がるというか意味深になるというか、なんかよろしくない風でもある...(なんのこっちゃ)。
まあ、この辺が男性社会が千年やそこらで築き上げてしまった良からぬ風潮なんでしょうが、でもやっぱり悔しかったですよ娘さんに負けるのは。
これではいかん!
そこで会社のサッカー部に参加することにしたわけです。
周りはみんな若い衆ばかり。
「新入りの橋本です。HPが低いので、その辺よろしくお願いします」
とはいうものの、こう見えてもFCのコーチですから、スペースを活かしたりラインの裏を突く戦略には長けている。
たいしてマークもされないから、相手に気づかれずに絶好のポジションをとることができる...
はずでしたが、駄目です、一人だけゼイゼイ喘いでいるので何処にいるかすぐわかってしまうのでした。
今日は野村ヤクルトが日本一を決めましたが、サッカーにしろ野球にしろ団体スポーツの面白いことの一つは、個人は個人として独立しているのに、チームや強いては観客達と一体的に期待し行動し感動することです。
クラゲだのアオミドロだのマッシュルームだの部分と総体の区別がつけにくい生物がいますが、自己の存在を意識し主張する人間でも個の区別が曖昧になる場のようなものがありますね。
桂枝雀さんの落語の枕で「昔は病気は一つだったんです」というのがあります。
「先生、具合が悪いんですが」「あ、それは病気です」ということだったそうな。
それがいろいろ分けて考えられるようになったので何種類もの病気ができた。
「分かるということは、分けられるということですから」と枝雀さん。
確かに、地球の周囲を40000キロメートル、1メートルの振り子が振れるのを1秒として、人間はいろんなものを分ける、即ち分かるようになってきました。
細胞や分子や光に至ってさえ、1個2個と数えることができるようになりました。
だから我々は、原子というと丸い核の周りを丸い電子がくるくる回っている姿を連想します。
しかし、それが本当の姿なのかというと、そうとは言い切れないらしい。
実際には、電子は原子核の周りに確率的に雲のように存在しているというモデルが妥当だそうで、電子を1個2個と数えるのは、そうした方が都合が良いからなんだそうです。
光だって、光子という粒に見立てるか電磁波という波に見立てるかは認識の都合によるのであって、いってみればデジタル体温計でもアナログ水銀計でも都合のいい方で熱の具合を診ることができるわけです。
フランスのどこかに1メートルの基準の物差しが、イギリスのどこかに世界時刻の基準の時計があるのだそうですが、いったいどんなものを使ったら不変な物差しや一律な時計が作れるのでしょう。
無理でしょうね。
そもそも我々は、どんな定規を使っても直線を引くことはできないし、どんな水晶発振器を駆使しても正確に時を刻むことなどできません。
貴方は真円を見たことがありますか?
僕はありません。
タイヤはもちろん凸凹してるし、月にはクレーターがあるし、算数の試験問題に出たものは紙の繊維とインクの滲みでいびつだったし、パソコンに描かせたものはRGBの発光体で縁取られていてギザギザでした。
つまり、単位というのは、人間が物事を認識するための観念であり、存在そのものではないわけです。
1個のリンゴと言うとき、それが何を差すかは大凡の了解の上に正しいのであり、虫が喰っていたり、皮が剥かれていたり、未だ花が落ちていなかったり、熟して溶けてしまっているような場合には大いに悩むでしょう。
同じように悩ましいのは、個人の存在です。
僕は少なくとも自分は1人と数えています。
が、自分の足は自分そのものなのでしょうか(また始まった...)。
では、子供の頃の自分は今の自分そのものなのでしょうか。
生物を遺伝情報を運ぶ船に見立てた学者がいますが、そう大げさに考えなくても、脳は記憶を運ぶ船の役割をしています。
子供の頃の、あるいは昨日の自分を記憶として携えてはいるものの、果たして同一人物かどうか見極めようとすると、そこに意志の存在を考えずにいられません。
また、意志と記憶は引き離して考えられるほど疎遠ではなくて、神は何故か我々が毎晩眠るように設計されましたけれど、自己が時間的に一連の存在であることを安心するためにはその両方が必要です。
しかも、それらは甚だ移ろいやすいものときている。
記憶したものは、間違えるし、忘れるし、意志ほど優柔不断で気まぐれなものはないし。
自己とは斯くも儚く頼りないものです。
興味深いのは、話が戻りますが、その団体スポーツに例を見る集団的自己で、記憶や意志の持続ということだけでも一種の人格を持っています。
仏教だったかなんだったか、人と人とは同じ地面に生える木と木のように根底で繋がっているという霊だかなんだかのモデルをみたことがあります。
木の天辺に当たるところが個人の意志というわけです。
しかし集団的自己は、その天辺やそれに近い枝葉までもが交錯し合って、いわば密林のような様相を呈しています。
森を1個の生命に見立てることは、決して不自然なことではありません。
人口は増えたのに、満員電車は押せ押せなのに、電話どころかパソコン通信だのインターネットだのという通信媒体も普及したのに、ますます孤立し疎外感を強めている人達が僕を含めて減る傾向にはないように思えます。
人は分けることが分かることだと思って賢くなってきましたが、繋ぐことで分かることもあるのではないかというお話です。
--- 23.Oct.1997 Naoki